福祉政策 welfare for Norwegian young people

この絵ってどう解釈すればいいですかね?

今日はノルウェーの若者たちがどのような恩恵(?)を受けているかお話したいと思います。

まず、16歳になるまで毎月子供たち一人一人に対し経済的援助があります。

娘が幼かった時にはたったのKr.260くらいだったと思います。

当時はレートの関係で¥5,000位と思ってましたが、今はもっと上がっていると思います。

そして、子供が多ければ多いほど援助は多かったです。

問題は義務教育が終わってからです。

今でも、ノルウェーでは(ヨーロッパではたいていそうです)高校に進まない人たちも多く、無論、大学もそうです。

ノルウェーなんて大学は確か4校だけではなかったでしょうか。

費用がかからなくても彼らは進学しようとは思わないのです。

また、親も子供たちも義務教育が済むと独立して家から出て行くのが当り前、と思っています。

夫も中学の後は自力で進学しオスロで就職もし大学にも通っていました。

つまり、ノルウェーの若者たちは中学を終えると親元を離れ自活しようとするのです。

親の援助はありません。

自活していない若者は親も本人も恥だと思う、それが普通です

ここまでは私はノルウェーのいい所、と思っています。

ただし、何しろ、うまく(?)立ち回れはいくらでも政府から援助がある国なので、様々なことを見聞きしました。若者だけではありませんが。

ある少女の話です。

血縁関係はないのですが、夫の一番上の姪が結婚していた人の娘で姪も甘やかされて育てられたからか世間を見る目がない、というかとんでもない人と結婚したものだと思ったものでした。

その人は結婚していたのですが、奥さんはドラッグに手を出したりで、離婚、そして元の夫が再婚したころには亡くなりました。

結局、姪とその人との結婚も破局を迎えましたが、それまでに私たちも数回彼らにあった事があります。

姪にとってstep daughter継娘となった少女は我が家の娘と1歳しか違わず仲良くしてもらったりしていました。

凄く元気な子で少々ハチャメチャなところがあるとは思いました。

朝から大きなコカ・コーラ瓶をごくごく飲んだり・・・。

親が何も気を付けていなかったのだと思います。

彼らが離婚後、もう会う事はありませんでしたが、時に噂が耳に入ってきました。。

その少女は義務教育を終えてから進学はしていません。

そして、仕事にもついていません、今も。

実際のところはどういう経過で次のようなことになったのか分かりません。

父親が彼女を医者の所に連れて行き「**の病気だから仕事はできない。その様に処方し、書類を作ってくれ」と話したというわけです。

どんな症状のどんな病気か私には分かりませんが、本人が痛みなり何かを訴えると、医者は言われるように処方し書類を作成しなければならなかった、という事なんでしょう。

それ以来、彼女は建設的なことはしていない・・・

しかし、しょっちゅうパーティはしている。

生きていくための生活費は国からおりるのです。

そんな彼女も20代に、そして、時はインターネット時代です。

彼女は海外の人たちとインターネットを通して知り合いました。

ノルウェーにおいで!一緒に楽しく過ごそう」などとメッセージを送ったのです。

それに反応したオーストラリアの若者2人が本当にやってきました。

この先、話はどう発展すると思われますか?

観光ビザが切れそうになった頃でしょうか、彼らは母国に帰っていきました。

彼女は彼らについていったのです。

そして、また、観光ビザが切れそうになった頃、彼女はノルウェーに帰ってきました。

大きなお腹を抱えて。

彼女は未婚の母となりました。

で、もっと彼女は保証されて生きることになったのです。

そんな具合に仕事をせずして政府からの援助で生きて行こうとしている人も多いのです。

その反面、政府は仕事を真面目にしている人たちからはこん限り取ろうとします。

所得税なんて下手すると半分持って行かれてしまいます。

ノルウェー人は自分たちを幸せな人たちと思っているとか。

私はどうして、と思ってしまうのです。

子供たちは独立すると家を出て行ってしまう、結婚をすると年に1回も親元を訪れなかったりする。

親元を長いこと訪れなかった・・・やっと訪れたら父親は8年前に孤独死をしていた・・・

ドラッグ中毒の人も多い、アルコール類は高いけどそれでもアルコール中毒の人も多い。

近所の人たちとのコミュニケーションもそうない。

年に500~600人の自殺者がいるとか。

ノルウェーの人口は500万人ちょっと・・・この比率は大きくないですか?

まだまだ福祉に関しては書きたいことがあるのですが、またの機会に・・・。

Mother's Day 母の日

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お隣の庭にも鉢植えのカーネーションがお子さんから届いたようでお子さんたちの心を想像しています。

毎年この時期になると・・・です。

お隣さんは毎日のように庭に出てはその世話をしています。

で、私はお母さんの気持ちも想像します。

今日は母の日という事で、私の母と行った旅のお話です。

母が初めて海外旅行に出かけたのは1994年だったかな。

私が計画を立てて妹も一緒にパリに行きました。

Euro Disneyにも行ったりで、3人共童心に帰ったり、気に入った絵を買ったり、「多すぎる」と言いながらレストランで様々な料理を堪能したり・・・今、考えてもいい旅行でした。

母が次に出かけたのはタイだったでしょうか。

計8か国、オーストラリア、シンガポール、マレーシア、韓国、中国(3回)にも一緒に出掛けました。

オーストラリアでは母と妹は花に目がないという事で、シドニーの植物園にも行きました。

世界には日本とは違う閉園の仕方があるってこと、想像つきますか?

開園時間は気を付けて見なかったのですが、たぶん決まった時間なのだと思います。

母と妹が花を見だすと随分時間がかかります。

特に時間がかかった薔薇園に行きついた頃は、確かに数人の子供たちがそのあたりで遊んでいました。

他の観光客もいました。

が、辺りが暗くなり始めると、日が沈みかけた途端、急に人影がなくなり、声も聞こえなくなり静まり返ってしまいました。

この先はちょっとしたドラマが書けそうなお話に展開です。

この国では閉園時間は決まっていない、それは日没時という事は分かっていました。

それがそんなに早くやってくるとは。

園から出なくてはならない・・・

しかし出入り口はどこもすでに閉まっている・・・。

私たちは様々なことを考えました。

私たちの背よりはるかに高い鉄柵を何とかして乗り越える?

私たち若い者は仮にできたとしても母は無理か。

じゃあ、次の日の朝までその辺で「野宿」をするか・・・

作の外は車道で多くの車が絶えず走り去っていました。

大声を出しても聞こえなかったでしょう。

などなどと考えながら、とにかく出口を求めて歩き回りました。

途中で反対方向からやって来たオランダの夫婦やら数人の同じ目にあっている人たちにも会いました。

反対方向からやって来た、という事は私たちがむかっている方面にも出口はない、ということ。

まるでmaze迷路でした。

そうこうしているうちに、車の光が見えて、それは私たちの方にだんだん近付いてき、やっと私たちは救助されたというわけです。

救助という言葉はちょっとオーバー?

しかし、その車はレスキュー車と呼ばれていました。

という事は、毎夕、私たちと同じ目にあっている人たちがいるわけ・・・。

次のひどい目にあったというお話は中国、大連でのことです。

母と夫、それに私という個人旅行だったのですが、まあまあのホテルに泊まっていたと思います。

ある日、私がひどい腹痛に襲われたのです。

次の日は観光どころではありませんでした。

原因は食事だったのでしょうか。

実際のところは分かりませんが、ホテルの部屋で寝込んでいて分かったことがありました。

house-keeperの人が部屋の掃除に来てくれたのですが、部屋にあるカップなど、彼女はそのあたりを拭く布、早い話が同じ布(雑巾?)で、テーブルもカップも拭いていました。

そんなんじゃあ、私たちが何も考えずお茶でも作ってそれで飲んだら病気にならない方がおかしいではないですか。

知った時には遅かりしでした。

母もお腹の調子が悪くなって次の日は寝込んでしまいました。

どれくらいの旅だったか覚えていないのですが、7~10日間だったでしょうか。

帰国する頃には私は治っていましたが、母はまだ調子悪く夫と私が観光で出ている間も、部屋で休んでいました。

今、考えると、私も何を考えていたのか・・・

観光しながら病院が目に入ると、母をこの病院に置いたまま帰国することになるのか、などととんでもないことを思っていました。

帰国する日、母は気丈に起きだして一緒に帰りました。

母は母で「こんなところに置き去りにされてたまるものか」なんて思っていたのでしょうね。

彼女の再びの中国旅行はまたもや大連へ。

それは個人でなくツアーに入ってのことでした。

ただし、他に人が集まらなかったのでしょうか、母の弟とその奥さん、そして母と私だけでした。

雨が降っていたのですが、母はしっかりした足取り、自分の足で203高地に登り観光もしました。

もうすぐ私がその時の母の年です。

母のように私が達者に山に登れるかどうかは疑問です。

再度、叔父夫婦と出かけたのは台湾でした。

この時には妹も一緒でした。

ちょうど帰りの日が母の78歳の誕生日だったのです。

スチュアーデスにお願いしてお祝いをしていただきました。

機内通路を3人のスチュアーデスがケーキを持って歩き、母に持って来てくれました。

ちょっとした絵に見えましたよ。

赤く燃えるキャンドルですべてがもっと暖かく思えました。

私たちにもシャンペーンのサービスがありました。

母の目には涙が・・・

その旅が母には最期の海外旅行になりましたが、すべてがいい思い出です。

先月、実家に帰った時も、また、それらの思い出がいっぱい詰まった写真のアルバムが出て来て様々な思い出話をしました。

さて、パリ行きにのぞんでは、フランス語は全然喋れなかったのですが、夫に必要なフレーズだけ特訓してもらい、「~はどこですか?」、「~が欲しいです}などなど、随分役に立ちました。

旅って現地の言葉を少しでも喋れるともっと楽しくなります。

福祉国家ノルウェーのsenior citizen

新しい屋根のためにお金は払えない、困った時のためにお金をためているから、ですって。

政府が言っているのです。
We're saving for a rainy day.とは困った時のために貯蓄する、という意味です。

「年寄」という言葉を使おうかと思いましたが、これは私としてはあまり好きでない言葉。

「高齢者」じゃあ、私の感覚では「年寄」よりももっと年がいっている、と思えるのですが、どうでしょう?

で、senior citizenと書いてしまいました。

辞書で実際の意味はどうなっているのかみたら「高齢者」と載っていました。

むっときます。

今日はノルウェーの高齢者への福祉政策、年金などについてお話したいと思います。

私が住んでいた時は、65歳から年金は支給されていました。

何年前だったのでしょうか、変更され、今は、68歳からになっています。

年寄りたちはまあそう贅沢をしなければ暮らしていけるだけの年金をもらっています。

日本円に対してのレートの関係でこれだけ、とはっきりは言えないのですが、ノルウェークローナが強かった時には年数百万円か、と思ったこともありました。

前回の記事のように病院代などは無料、そして、時には遠足なり旅なりに出かけてください、というわけで月に数万円のタクシー代が支給されるようです。

義母がまだ存命だったころ、妹と訪れた時には、彼女がタクシーで私たちを近辺の観光に連れて行ってくれました。

そんなお金を月8万円もらっていると聞きました。

年よりだけでなく病人、あるいはハンディキャップのある人たちにも手厚い福祉政策があります。

家庭で誰かがハンディがあり寝たきり、一生働けない、などという事があっても、その人たちには生活の上で不自由なく暮らせるよう援助金がおります。

また、無論、その人たちの介護等には一切費用が掛からず、しかもその人の配偶者でも母親でも、とにかく誰かその人の世話をする人に「その仕事用」のお金が支給されます。

義母が亡くなる前、2,3か月病院にいたのですが、その看護やらで先ほど記述の義兄の奥さんはその「お仕事の」お金を申請し頂いたと言っておりました。

だから、日本の様に介護のために仕事をやめなければならない、介護で疲れて共倒れ、時に殺人、などということは聞いたことがありません。

北欧はご存じのように日照時間が少ないです。

そのために病気を発症してしまう人もいます。

すると、南の国に行って療養しなさい、と国から費用が出ます。

夫は2,3年前からノルウェーの年金をもらっています。

実は私ももらえるはずだったのですが、その年になって申請しようとしたら政策が変わってしまっていて条件を満たしてないから、ダメと言われました。

帰国する時に管理事務局に行って時期が来たらいくら支給されると計算された書類をもらっていたのですが、その段階でそれはただの紙切れになりました。

外国人で受給できるのはノルウェーに20年以上住んでいるか、5年以上そこで仕事をしたことがある者だけですって。

それなのに、夫が年金をもらえるという時になり、申請書を出すと、今現在の私の収入とかも計算して(関係ないと思いませんか?)夫はいくら受給されるか書類がきました。

これは毎年、申請書につけて出さなければならないのか、夫は最初の時にしかそうしていなかったようで、先日届いた書類なんてその申請がなかったので勝手に私の昨年の収入を500万円(そんなにあるはずないでしょうが!)と計算して夫の年金を算出した、と言っていました。

その分、夫の年金額が減らされているという事です(ただし、足らなかったら増やす、という事も言われています)。

夫は言っています。

彼らのやり方はいつもそうだって。

夫のお兄さんも自営だったのですが、べらぼうな税金を払え、と言われて拒否したら、車(大型のベンツのバン)を持って行かれてしまったとか。

で、しょうがないから(なかったら仕事ができない)、言われているだけの税金を渋々払ったというわけです。

その後、どうなったと思います?

お兄さんはそんなことがあった年内に健康を害し仕事を辞めましたが、実際以上の収入があると言われ、それに対する税金を言われるままにしょうがないから払った結果、その税に見合った年金が算出されたわけで、今じゃあ、相当高額な年金をもらっているという事です。

もしかの時には私も夫の60%の年金を頂けることになっているのですが、この数値は日本も一緒でしょうか。

で、ここでおかしいのは私は仕事をしていないにしてもノルウェー在住の時、夫を支え、それから以後(あと3年で金婚式です)も同様に支えてきたと思うのですが、夫の友人(ドイツ人、夫の元同僚、今はドイツに住んでいます)の奥さん(どちらも再婚同士)は結婚して数年にもかかわらず、ノルウェーに住んだこともなくても、もしかの時にはその友人の60%の年金を支給される事・・・。

ノルウェーも様々に矛盾したことがある国です。

私が住んでいた時もすでに相当数のパキスタン人、出稼ぎの人がいました。

彼らは国に帰って奥さんを連れてノルウェーに戻ってきます。

そして、彼らの子供たちは、もはやノルウェー人なのです。

生まれた時から手厚い福祉のもとで生活することになります。

シリヤやあちこちの国からの難民も受け入れています。

東欧の出稼ぎの人たちも随分増えています。

彼らもその福祉のもとで生活しています。

ノルウェーはそんなわけで髪の色、肌の色の違う人たちが随分と増えています。

ホテルで話しかけてもノルウェー語が通じない…私の経験はポーランドの人でした。

ノルウェーの古き良き時代(私が暮らしていたころでしょうか)を知る年寄りたちは言っています。

ノルウェーは嫌な国になったと。

福祉が最高でも、住民は不満を抱えています。

長くなってしまいました。

若者たちの福祉のことは次に回します。

Welfare State, Norway 福祉国家ノルウェー

どのように福祉政策が始まり、どのように終わるかですって!
今の日本もノルウェーだって下のイラストに似たり寄ったりだと思います。

ノルウェーは世界に名だたる福祉国家で、国民も幸せ度の高い国だと満足しているような統計が日本でも伝えられていますが、実際にはどうなんでしょう?

私は日本の方がはるかに幸せ度は高いと思うのですが。

日本の人たちは「隣の芝生は青い」という見方をしている、ノルウェーを始めスカンジナヴィアの人たちは他の国のことを知らない、知ろうとしないからそう思えると私は感じるのですが、いかがでしょうか。

実際、高度な福祉国家には違いないノルウェーでは、病気になっても費用はかかりません。

と,言っても病状を診てもらうには、個人的に医師を見つけて診察を受けに行きましたが、これには費用が掛かりました。

たいていのコミュニティにはその中心地に必要な施設(銀行、郵便局、日本で保健所と言われるようなhealth centerなど、それにスーパーマーケット)があります。

health centerでは赤ちゃんの検診やら様々なことを無料で診てくれます。

その後、もし。病院に入院だ、手術だという事になってもこれも無料です。

だから、彼らは努めて貯金をする、なんて考えはないようです。

で、どれだけたまったかによってその年の夏の旅行はどこへ・・・という事が決まります。

ただし、最近、夫がノルウェーの記事を読んでいて発見したことですが、ノルウェーの人たちは1世帯当たりかどうかまでは聞きませんでしたが、2000万円の貯蓄があるとか言っていました。

このご時世でノルウェーも少し変わって来たのかも。

さて、我が家の娘はノルウェーで生まれたのですが、お産のために病院へ行くのも退院して帰る時に使ったタクシーも無料でした。

国家が払ってくれるのです。

そして、お産自体も病院での日々も全て無料でした。

お部屋は3人部屋でしたが、とても清潔でモダン、部屋には浴室、シャワー、トイレと設備が整のっていて快適、毎日の着替えとかも自由にいくらでもどうぞ、という感じでした。

食費も無論無料でしたよ。

おかしかったのは、お産の次の日には体操のインストラクターがやって来てベッドの上で体操をしたこと。

家に帰ったら(6日位で帰ったと思います。今ではもっと短くなっているかも)すぐに自分で全部しなければならないのだから・・・と言われました。

まあ、日本と違って里帰りなんて習慣はありませんから。

子供も夫婦で文旦して育てる、という感じです。

私はノルウェーに住むようになる前から、日本でも徐々にそうなっていたとは思います・・・(さまざまなことで今も母には勝手なことをした、と言われますので)独立心を養っていきました。

人を当てにしない、頼らないという事です。

さて、話を元に戻します。

実は娘は生後すぐに心臓病があるという事が分かりました。

検査、入院を何回したでしょうか、生後半年の時、とうとう手術をしました。

スエーデンの名医の執刀という事でしたが、これも無料でした。

まあ、なんでも一応無料なんですが、日本では考えられないことが有料、しかも高額です。

何だと思いますか?

歯の治療です。

これは自分の管理が悪いのだから・・・だそうです。

どう解釈しますか?

正しいことですかね?

また、政府の決めたことではない薬の投与(もっと高価なもの?もっと効き目のあるもの?確かに延命につながるもの、私はその辺は何とも言えませんが)を望むなら実費が要り、日本のような保険制度もないので相当高額なものになる様です。

その薬だったら命をつないで行ける、という状態でも政府の許可は下りないようです。

また、手術とかで入院が必要でも半年先のことになってしまう事も。

日本の方がよほど住みやすいと思いませんか?

長くなりましたので、若者に対して、あるいは高齢者に対しての福祉については続編で、ということにします。

親指を下げることがなぜ不賛成の意味に?

この絵のようなポーズをしたことがありますか?

こんな絵を初めて見たのはいつのことだったでしょうか?

はっきり覚えているのは、イタリア、ローマに旅した時に夫が買ってくれたローマについての日本語版(ちゃんと日本語の本がイタリアの土産物屋さんにありました)にたくさん載っていたこと。

それを見て「ああ、そういう事なんだ」と思ったことを覚えています。

不賛成、拒否を意味する英語にもthumbs-down というのがあります。

thumbは親指です。

英語では親指と他の指とを区別して親指だけはfingerを用いず、 thumbを用います。

(ただし、場合によっては日本語と一緒でfingersで親指もあらわすことがあります)

つまり、thumb-downとは、直訳すると親指を下げるということになりますが、それがどうして不賛成の意味になる?

これは古代ローマ時代にさかのぼり闘技場の慣習に由来するのです。

観光名所にもなっているローマの有名な遺跡に巨大な円形闘技場コロシアム、古代ローマ時代にはそういった闘技場でよく剣闘士の試合が行われました。

映画『グラディエーター』などでご覧になった通りです。

試合で勝敗が決まると、勝者は観衆の方を振り向く。

そうすると、観衆たちは親指を揚げるか下げるかによって「殺すな」か「殺せ」の合図を送ったのです。

何ともcrazyな習慣だとは思います。

野蛮なこと!

観衆が親指を揚げれると敗者も拳闘したのだと認められたことになり、その命は救われたのです。

下げれば勝者は敗者を殺す事が出来た・・・。

ここから親指を下げるthumbs-downが不賛成や拒否を意味するようになったのです。

ところで、海外で見た剣闘士についてのTV番組で言っていました「剣闘士として戦う事は非常にハードなのでは20回競技場で戦うともうリタイアしていいのだと。あとは優に暮らしていけるお金ももらえる」と。

映画で見た彼らの姿とはずいぶん違う、と思いましたが。

thumbs-dowm と逆に親指を揚げるthumbs-upはアメリカ人が良く使うポーズ。

例えば、1992年当初のブッシュ大統領が夫人と来日しましたが、帰国時、夫妻は見送りの人々に向かって親指を突き出すthumb upのポーズを見せています。

これは、大丈夫、うまくいった、満足と言った意味でしたしぐさだったのでしょう。

さて、競技場で行われたこの野蛮な「催し」が一つだけ今も残っているのをご存じですか?

スペインとかに行かれた方は見られたかもしれません。

メキシコでも見られると聞きました。

私は無理。

そんなもの見たいとは思いません。

闘牛です。

スペインの闘牛場の隣には闘牛で死亡した牛を解体するところ、そして肉屋さんがあるそうです。

 

カタカナの電報

カタカナのオとイですが、私たちが学校で習ったカタカナの起源とは違いますよね。

外国人日本語学習者のために作られたものでしょうか。

イは鳥の形、と教えるのでしょう。

漢字を知らない彼らにはその方が覚えやすいに違いないですものね。

この字を見ながら、私はヒエログリフを思い出していました。

英語のアルファベットのAは牡牛の頭の形から、というのはよく知られていますが、ヒエログリフではaはこのイと同じように鳥の形から作られています。

かなり昔です。

NHKヒエログリフの読み方を解き明かしたシャンポリオンの番組があったのですが、興味深く見たものです。

他にLはレオ、つまりライオンが前足を投げ出し座っている形とかすぐに覚えてしまいました。

ロンドンの大英博物館ロゼッタストーンを見ましたが、他にも見るものが多すぎてじっくり読んでみるまではいきませんでした。

それにしても、シャンポリオンの時代から現代へ・・・随分と時代は変わって、今じゃ自分の名前をヒエログリフで書いてみよう、なんてサイトもあったりするのですから驚いてしまいます。

ピーターラビット』のヒエログリフ版まで出版されているみたいです。

試してみたいですか?

プトレマイオスクレオパトラヒエログリフ表記をアップしておきます。

a の鳥、とlのライオンがちゃんと描かれて(書かれて、と書くべきですね)いますよね。

さて、カタカナのお話から話が随分違う方に行ってしまいましたが、元に戻します。
長いこと電報なんて送っていませんが、皆がスマホなど持ち、瞬時にどんなメッセージでも送れる昨今、今日も電報のシステムは存在するのでしょうか?

そういえば、考えてみると、私自身は電報なんてもらったことがなかったなあ。

電報ってカタカナで打ってありましたよね。

漢字を交えての電報だったら分かりやすいのでしょうが、一昔前には、当時の機械の関係でカタカナだけを使わなければならなかったようです。

そして、カタカナだけを使っての電報では様々に面白いエピソードが生まれたようです。

実家に「カネオクレタノム」と打電したところ・・・

どう解釈しますか?

両親は「金をくれた、飲む」と解釈し、「ダレガクレタアマリノムナ(誰がくれた、あまり飲むな)」と返信した、というお話を読んだことがあります。

本当は「金送れ、頼む」の意だったのですが。

また、「ツマデキタ カネオクレ(津まで来た 金送れ)」の意で打電すると、親は「妻できた 金送れ」と読み、すぐに多額のお金を送って来たとか。

カタカナ(平かなだけで書いても結果は同じとは思いますが)だけで書かれた日本語が持つ欠点ということでしょう。

それにしても、なぜカタカナなんだ?と思いませんか。

憲法や法律の本なども漢字とカタカナで書かれてありますよね。

今もですか?

読みにくいというだけで嫌悪感をいだいていました。

試験勉強をしたくない、と思ったのを思い出します。

どうしてカタカナを使った表記をするようになったかという理由ですが、明治時代において学校での指導は、まずひらかなではなくカタカナだったという事のようです。

それも、どうして?と思ってしまいますが。

 

スチュアーデス、この言葉のもともとの意味は「豚小屋の番人」だった

スチュアーデスって、若い女性にとって今でもあこがれの職業なんでしょうか?

ずっと以前、二十代のころ、スエーデンの友人が「スチュアーデスになったら?」と言ったことがありました。

えらい簡単に言ってくれるわ、と思ったものです。

彼はSASの官舎(そんなものがあったのだろうか、それは疑問です)にでも住んでいたのでしょうか、紹介してくれたお隣さんもパイロットでした。

その人の奥さんも友人の奥さんも飛び切りの美人で、そのころ、スエーデンの人たちは皆美男美女か?、と思ったものでした。

私の日本の友人でずっとなりたいと言っていた人が、念願かなってスチュアーデスになったのですが、なかなか仕事は大変だったようです。

例えば、お国柄によって(路線によって)機内の対応を替えなければならないとか。

インドへの飛行だったりすると、目的地に到着するまでに相当洗面所は汚くなる・・・などとか。

海外の友人が言っていました。

何でスチュアーデスなんかになりたいんだろう?

茶店とかの仕事と一緒じゃあないの、って。

実際、海外の飛行機のスチュアーデスって日本の人たちとは大違いと思ったことがあります。

アエロフロートなんかすごいでかい、貫禄のあるスチュアーデス・・・。

さて、今日はスチュアーデスのお話です。

このスチュアーデスという言葉、stewardess スチュアーデスの語源をたどると随分と違った意味に行きついてしまいます。

「豚小屋の番人」だなんて想像つきますか?

スチュアーデスは英語でもstewardess,これは  steward という単語に女性を指す接尾語の-essをつけたもの。

このstewardは「豚小屋」という意味のstyと「番人」という意味の wardが合わさったもの、で、「豚小屋の番人」に行きついてしまうのです。

そうすると、stewardessはもとは豚小屋の女の番人ということになります。

stewardの単語の綴りは時代とともに変化しいくつか綴りが並行して存在したりしたので、11世紀までさかのぼれば stirweardなどといった違った綴にたどり着きます。

機内での仕事、steardess,もその前は、air nurseと言われていました。

呼び名が全然違いますよね。

これはその仕事には「看護師」の免許が必要だったからです。

まず、1928年にドイツ、ルフトハンザ航空がair stewardを乗務させるようになりました。

それまでコーヒーを注いだり、飛行機の乗客の世話をするのは副操縦士の役目だったのだそうです。

世界で最初のスチュアーデスを乗務させたのは、今はもうないですか、ユナイティッド航空の前身であるアメリカのボーイング航空だった。

1930年のことです。

年齢、体重、身長など様々な制限があったとか。

それは今でもでしょうか?

先ほども書きましたが、特に看護師の免許が必要だったのです。

ユニフォームは白衣で乗り物酔い(飛行機酔い)とコーヒーの世話が主な仕事だったとか。

これが契機となり、わずか数年でアメリカにあった20数社の航空会社が競ってスチュアーデスを採用するようになったそうです。

呼び名はair nurse, air girl, air hostess, flight hostessと呼ばれた時期もあったそうですが、どれも長続きせず、スチュアーデスという呼び名に落ち着いたようです。

今じゃあ、flight attendantかcabin attendantです。

ところで、皆さんは飛行機に乗るとしたらどのあたりの席がいいですか?

私は後部座席、トイレの近くがいいと決めているのですが、席も「いい席」、「悪い席」があるんですって。

私はどういう事でそうなったか分かりませんが、北海道に旅した時、いつもと同じ料金だったのに、マイレージはいい席だったからと随分と積算されました。

海外に旅する時も、予約に入っている、払っている料金はもっといい席なのだけど…などと言われたことがあります。

それにしても、早くまた飛行機で飛び立ちたいですね。