マルチン・ルター Martin Luther

 

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先日、マルチン・ルターの宗教改革の映画を見ました。

免罪符を発行し、それを手に入れれば天国に行けるという触れ込みで人々にそれを売りつけ、財力を膨れさせていく法王庁。また、人々は字が読めたとしても、聖書はドイツ語ではなくラテン語であるため、いずれにしょても読むことはできない。

それがおかしいと思ったルターはギリシャ語の聖書を手に入れ(当時は殆どの聖書がラテン語だった)、ドイツ語に翻訳していきます。法王庁は彼の行いを脅威ととらえます。結局、彼は火刑に処せられます。

庶民は聖書が読めなくてもいい、何も知らなくてよい、法王庁の言う事だけを信じておればよい、と彼らは言うのです。

この映画を見ながら、私は衆と民と言う漢字を思い出していました。

大衆の衆と言う字は「太陽と人人人」からできており、炎天下で働く奴隷の群れを表しているということです。人民の民という字の方は「目を鋭利な針で突いて盲目にした様子」を表しており、のちに出来上がった眠(目が見えない状態)の源字で、役番のかわりをさせられた盲目の奴隷のことだそうです。

いつの世も政府にとっては、国のまつりごとには、盲目的で何も言わず黙々と労働し、お上のことを何も疑うことなく、一切、批判しない国民、臣下の方が良いという事でしょうか。

ヨーロッパを旅するとルターだけでなくフス(ローマ)、ジャンヌダルク(フランスのブロアーだったでしょうか)などが火刑にあったといわれる所を訪れることもできます。ローマもレストランで食事をしていた時、友人がレストランの窓のすぐ外の広場でフスが火刑に合ったんだと淡々と話し出したことに私は少々驚いきました。

ドイツにはMartin Luther’sDayというマルチンルターを記念した日があります。

この日にはハローインと同じように、子供たちは近所中を歌を歌って回り、お菓子をもらいます。

ちょうど北ドイツ、フリースランドの友人宅に滞在していた時にそのお祭りがあり、友人が私も参加したら・・・と言うので、友人宅の近所を日本の歌を歌って回りました。

変装と言った大それたものでもなかったのですが、カンテラを持って、なんていわれたのでカンテラも持って・・・。別に火はついていませんでしたが。

随分と、お菓子を頂きました。次の日はオランダに向けて発つ日だったのですが、2,3のチョコレートだけもらって全て友人宅へ置いていきました。友人宅にはまだ哺乳瓶が必要な双子の赤ちゃんがいたのだけどチョコレートは無論彼らは食べられない…近所の子供たちにあげたのでしょうね。

世界の人々の心情というものはどこも同じなのでしょうか。

ノルウェーにはユレボクという風習があります。これはクリスマスのころに行われる習慣なのですが、これも子供たちが近所を訪ね歌を歌い、お菓子をもらうというものです。

Juleとはクリスマスのことで、クリスマスを表現するために、英語でもその言葉を使う事があります。スペルは英語らしく変化しYuleですが、ちゃんと英語の辞書に載っています。

ユレボクはお面をかぶって近所を回ります。私がYuletideクリスマス時にノルウェーに滞在していた時にユレボクの子供たちが、4,5人やってきました。一瞬、私を見て彼らの歌がやみました。

ノルウェーの友人たちが言うには、もう「先客」がいた、と思ったから。つまり、日本人を見たことがない村の子供たち、私がお面をぶっていたと友人は言うのですが、どうでしょうか。

また、背の低い日本人、若く見える(幼く見える)日本人は彼らと同じ年頃に見えたという事もあるのかもしれません。