Nazi Camp
終戦記念日という事でずっと書きたかったナチキャンプについて書くことにしました。
このゲートの写真は皆さん見られたことあると思います。
ナチの強制収容所と言えば、映画とかでも真っ先に画面に出てくるあの写真です。
私もツアーに参加しこの収容所を訪れました。
七年くらい前だったと思います。
このゲートの文言、「働けば自由になる」と言う言葉は有名ですが、ここを訪れた時、ガイドさんが言われたのは、誰がしたのかささやかなプロテストのつもりだったのか、ARBEITのBの字を逆さにしてある・・・作った当時から、そうだったのだと思いますが、誰も直そうとしなかったのも不思議ですよね。
この収容所では画面にあるとおりの立派なレンガ作りの建物がいくつも並んでいました。
そして、これらのうちの一軒の建物に今もヒットラーの写真が飾ってありました。
ただし、当時から出なく、後に私たちに見せてくれるために展示されたもののようでした。さりげなく
さりげなくA4程度の大きさのものがフレームを付けられて事務机の後ろ側の壁に掛けられていました。
無論、全部の建物に入る、見学はできなかったのですが、これらの建物のどれかの一角に死体を焼いたオーブンやら、下にのせた写真のような靴の山やら、眼鏡の山、ほうろう(?)の食器の山、髪の毛の山(ナチはそれから毛布も作っていました)、義足の山などなどが展示されてありました。
食器、鍋の山などはユダヤ人たちはそれらを使用して普通に生活できると思っていたため携帯して持ってきた・・・ということでした。
ヨーロッパでのツアーではガイドさんは現地の人、と言うルールがあるそうで、どの国に行ってもそうなのですが、この収容所では現地在住の日本人、中島さんが案内してくれました。
どうしてもその仕事がしたい、とポーランド政府を説得して許可をもらったとかでしたが、私たちにはラッキーでした。
ナチキャンプと言えばアンネ・フランクが有名ですが、彼女の一家はオランダからキャンプへの最後の列車に乗ったらしいと聞きました。
だから戦争が終わった時、彼女のお父さんだけでしたが、生還したのだと思います。
このキャンプでは命を長らえてもまあ3か月、と言う風に計算されていたのだそうです。
食べ物と言えば1日に1回だけ、ほんの一握りのパンと腐った野菜で作ったスープを与えられたとか。
ラッキーな人、あるいはうまく立ち回った人はそのスープの上澄み、濃い所を口にする事が出来た・・・
そんなキャンプがポーランドには200ほどあったそうです。
この写真も映画とかでよく目にする景色だと思います。
列車はこの建物を通り過ぎてキャンプの中に入ります。
この建物の真ん中にあるのはそう高くもないけどwatch towerつまり見張り台です。
この建物を抜けると収容所のバラックがいくつもありました。
そしてこの貨車、人間を積んできたであろう貨車もまだ残っていました。
次の写真は崩れ落ちたgas chamberガス室と記述してありましたが、一番上の収容所のガス室はちゃんとありました。
天井に穴が開いていてそこからガスを入れた・・・とかの説明がありましたが、とても生々しく思いました。
そのchamber(もとフランス語で部屋のことです。イギリスの観光地でも割とこの言葉を頻繁に使うようです。エリザべス1世の母親が出産したという部屋もこの言葉が使われていました)を出ると、近くに小学校の鉄棒みたいなのがあり、そこで終戦後その収容所の所長を吊るしたと聞きました。
『シンドラーのリスト』の最後の方のシーンを思い出しますよね。
私たちがここを訪れた時もイスラエルからの団体客が来ていて、12,3歳の少年がこの写真の人たちみたいにイスラエルの旗を背中に歩いていました。
ここを訪れた彼らの感慨と私たち日本人の感慨は同じではないとは思いますが、世界中の人たちが一度は訪れるべき場所だと思います。
ドイツの友人にここを訪れたいと思うか、と聞いてみましたが、返事はもらえませんでした。
実際の所、私のドイツの友人でここを訪れた人はいないと思います。
なぜでしょうね。
「ここで多くのものが処刑された」と言う壁の前には大きなリースが2,3ありましたが、1つにはドイツの旗が付けてありました。
私と妹は隣に平和を祈っており鶴を置いてきました。
日本人はかなり隣国から悪者扱いを受けていますが、今のドイツ人は、実際のところは自分たちがしたことではない(ナチの時代に小学生くらいだった人がそんなことを言っているので、戦後の人たちはもっとその傾向が強いのではと思います)、賢いドイツ人があんなことをしてしまったなんて信じられない、ナチがしたことだ、などと言っております。
ナチがしたこと、で全てかたつけられたらいいですよね。
ここまでの話は、一応、過去のこと。
戦争がいかに馬鹿げているか、人々にどんなに過酷な生活を強いるか、私たちは十分前の戦争で学んだはずなのに、今も世界では爆弾が降っている国がある…その指導者は前の戦争が終わってから何を考えて生きてきたのでしょう。
人間て、すべて指導者次第ですか?
過去の戦争の遺産とは違って次の写真はそのまま見ると明るくて美しくて楽しくて、私もすぐにそこに行って彼らの輪に入りたい、彼らと幸せを共有したい、そんな写真ではないでしょうか。
ウクライナの幸せな人々です・・・今のウクライナの世ではダンスをするどころか笑う気にもならないでしょう。
一日も早くこの地にこんな笑顔が戻ってくることを願っています。
錬金術師
錬金術師ってどんな風に響きますか?
しばらく前に読んでいた毒に関する本の中にもその言葉が出てきたのですが、自然の中から毒物を見つけたり、それをちゃんとした毒に作り出す技術者も錬金術師と言われていたそうです。
ヨーロッパではそれほどに毒物が重要だったという事に驚きますが。
ヨーロッパでは料理人は錬金術師の一種だと思われていたのです。
なぜかというと、ただの肉や野菜が料理人の手にかかると、たちまちのうちに変化してしまうから。
14世紀にフランスに伝統的な料理人が登場しました。
世界最初のグランシェフであるタイユバンと言う人。
フランス国王であるシャルル6世の総料理長であり、同時に守衛頭だったそうです。
また、彼はフランスで最初に料理本を書いた人物であり、錬金術師だったのです。
彼の調理場には150人もの料理人が働いていたとか。
こう暑くては何を料理するにしてもどうも気が乗らない。
そうではないですか?
それに暑くて買い出しがなかなかできなくて(仕事が休みなもので仕事の帰りに店に寄れない、ということもある)台所にあるもので頭をひねりながらなんとか作り出しています。
まさに、私は何もない所からすごいものを作り出してしまう錬金術師!の気分です。
暑くて猫の手も借りたい(本当言うと猫は絶対台所には入れません)!
家の中で台所が一番暑い。
隣の部屋にエアコンがありますので、そこのドアを開けて冷たい空気が入る様にはしてますが。
料理をするっていうのは時に拷問だわ。
何かいいアイデアはないですか?
Good- byeのお話
まだまだgood-bye summerとはいかないのでしょうか。
今日はgood-byeのお話です.
英語の挨拶にはいろいろありますが、その中でgood-bye だけはちょっと違っています。
他の挨拶はgood morning, good afternoon, good eveningあるいは、 good nightのように1日のその時がgoodであるようにと言う意味でよく分かるのだけど、good-byeの byeだけが意味不明だと思いませんか?
なぜか?
good-bye のgoodはもともと goodとは関係がなかったからなのです。
昔は別れの挨拶はGod be wy youと言っていました。
Godは神で wyは現在の withと同じ意味で神様があなたと共にいますように、と神様のご加護を祈った言葉だったのです。
だから、good はGod のことです。
このGod be wy youはやがてgood buy yeとなり、god bu、そして god-byeとなっていきました。
そしてgodは good morningなどの goodに引きずられてgood-byeと言うようになったのです。
なお、good-byeは他にgood-byと書くこともあります。
また、good-byeはもう二度と会わないであろう人に言う挨拶です。
海外を旅していてレストランや空港で普通に言われるので何とも思ったことがなかったのですが、 よく考えてみると上記の理屈に合っています。
空港などの人には再び会う事がまずないでしょうからね。
いつも会っている人たちにはbye かso longか see youです。
もっともso longはカウボーイたちの言葉ですし、 see youが一番いいかもしれません。
いつ次に会えるか分からないけれど会うだろう人たちには、see you next timeと言います。
bye-byeと言う人もいますが、これは赤ちゃん言葉です。
日本語になってしまっていて、つい私もこういってしまうのですが・・・。
ところでノルウェー語ではgood はgod(グッドと発音します)、 Godは gud(これもグッドと発音します)と綴ります。
ややっこしいです。
それにしても、早く夏にgood-byeて言いたいですよね。
Heating so much! お暑うございます
これってgood idea?
私もお盆で11日間お休みなのですが、こう暑くては仕事に行っている方が楽です。
家の中ではクーラーのきいている部屋の中にじっとしているわけにはいかないので。
先日、ニュースで言っていましたが、イギリスでも40度まであがったとか。
クーラーなんてない国では大変なことになるのでは、と思います。
ノルウェーも30数度に上がっているとか、日本のエアコンが良く売れているそうです。
私がノルウェーに住みだした時も、初めての夏が35とか36度まで上がってびっくりしました。
ちょうどトルコから帰ってきた時だったのですが、トルコより暑いね、と言う話になりました。
ただし、日本のように湿気てはいないのでそう我慢できないという感じではないと思います。
おかしいのは(こんなことを言うと叱られるでしょうか)そんなに気温が上がるとノルウェーの鉄道は悲鳴を上げ始めます。
線路が曲がってしまい列車が不通になったことが何回かありました。
日本とは逆・・・雪が降ってもノルウェーでは不通という事はまずないでしょう。
暑い夏の間、どうせ日本も暑いんだからって、東南アジアに毎年のように旅していました。
結局、日本が一番暑く感じられるのでしょうか。
真冬のはずの12月に出かけても、暑くて閉口したのはヴェトナムのハノイでした。
同じ12月でもバンコクはしのげました。
旅行中、スーツケースが届かなかったってことありました?
上海経由のスーツケースが1個現地に届かず私は届くまでの5日間困ったことがあります。
名札のタッグがとれてしまって(持ち手が壊れてしまった)迷子になっていたのです。
バンコク滞在で良かった・・・何回も飛行場へ交渉に行ったので。
やっと届いた5日後まで、3日間同じT-シャツを着てた、しかも夫のを借りて。
でもなんとかなりました。
4日目に航空会社から¥5000ほど頂きました。
迷惑料?
即、必要な衣服代に消えました(露店ならともかく、ちゃんとしたお店で買うと日本より高いかも)。
あれが真夏だったらお手上げだったと思います。
トンガへ行ったのは夏だったのですが、南半球に位置する現地は冬。
彼らにとっては冬で上着やキャップを着衣していましたが、私にとっては夏でしかない。
今の日本の暑さではないですが。
速く涼しくなってほしいものですね。
Messina(Italy)への旅
y
前回の記事でシシリアのことに少し触れましたが、シシリアは私が大変気に入ったところです。
そんなわけでもう少しシシリアについて書きたいと思います。
イタリア全土の地図をアップしましたが、これじゃあどこにローマがあるのかも分かりませんね。
これならどの辺りにローマがあるかお分かりいただけると思います。
ローマからシシリアまでは列車で行けます。
シシリアは島なのですが、列車はトンネルを通過したと思います。
何十年も前デンマークにスエーデンから(本当は列車はノルウェー発です)行った時には、フェリーに乗るのに列車の乗客はフェリーに列車が乗り込むまで降車する必要がなく、列車が船に乗り貨車を数台ずつにばらしてから乗客は降りて船内のお店などに行って良いシステムでした。
今も変わってはないと思います。
イタリアには個人での旅を数回しましたので、よく列車にも乗りました。
ヨーロッパで列車を利用する時に絶対気を付けなければならないのは、切符は前もって買っておくこと。
それに出来たらなるたけ早めに1等車を予約すること。
私たちはシシリアで私が風をひき込んでなかなか行動が起こせなかったのでぎりぎりになってしまい1等車の席が購入できなかった・・・で、2等車は?というとそれもだめ。
席がないのに1等車(1車両しかない)の切符を買ってコンパートメントの外、通路側に座り込んだりでひどい目にあいました。
しかし、親切な人もいたりでイタリア人の温かい心を知り嬉しくなった思い出もありますが。
ノルウェーもそうですが、切符は一応車内でも買えます。
じゃあ、それでいいじゃない、とはいかないのです。
相当割高になります。
そして前もって買っておいた切符は自分で改札チェックマシンを通しておかないと、これも忘れただけでも大変なことになります。
シシリアはイタリア、長靴のつま先の所にあります。
マフィアで有名なところですよね。
私たちが宿泊したMessinaの町には美しいカセドラルがあります。
皆さんに観光をお勧めしたいのはここなのです。
これだけの写真でこれがカセドラルにある仕掛け時計だとお分かりになりますか?
天文時計です。
1時間ごとに様々なフィギュアが出て来て画面は変わるのですが、圧巻は下の写真のライオンです。
正午だけですが、街中にガオーと言うライオンの叫び声が響き渡ります。
とても機械の音とは思えないリアル感があります。
この戴冠したライオンはメッシーナ州のシンボルのフィギャアで、正午には旗を振り、尾を動かし頭を回し、そして3回吠えるのです。
また、この雄鶏も正午には翼をはばたかせたかせ、頭をもたげ、3回鳴きます。
見ごたえのあるものだと思います。
カルーセル(回転木馬、空港のベルトコンベア等の意味もあります)の4彫像は、子供、若者、戦士、そして老人を表しているそうですが、彼らは鎌を振り下ろす骸骨(死神です)の前を通ります。
この死神の形は教会ではつきものだとは思いますが。
ほかにもフィギャはマリア様とハトとかまだまだ見られます。
メッシーナ、お勧めです!
未知との遭遇
今回も不思議なお話です。
旅をしていると時に不思議なことに出会う事があります。
知人に話すと「噓だぁ」と言われます。
皆さんにはどう聞こえるでしょうか?
鮮やかに美しい衣服が見えたことが2回ありました。
1度は中国の蘭州(中国語ではらんぞうと発音します)、あるホテルでのことです。
部屋に入った途端、何かが臭いました。
部屋から出る時に幼い子がお漏らしをしてそれが乾ききってなかったんだと思いました。
カーペットの一部が濡れていましたので。
さて、次の日です。
私たちも出発する用意をしていました。
ぱっと後ろを振り返った途端、美しい中国服を着衣した子供が見えたのです。
椅子の上にちょっこっと座っていました。
まるで『ラストエンペラー』の中で見た幼い皇帝の衣服でした。
青地に美しい刺繍が施してありました。
それで、私たちは前日の「臭い」が何だったか、分かったのです。
ホテル側には何も言わなかったし、自分自身の考えも深く追及はしたくなかったのですが、その部屋は毎日のように日中はカーペットが濡れてしまい、次の日には乾く、といったことが続いているのだろうと思いました。
もう1回の美しい服はイスラエル、エルサレムのホテルでのことでした。
夕方5時くらいだったと思います。
日中の観光に疲れてホテルに帰り着いた私はソファに座ると転寝をしてしまったのです。
何かの気配で目が覚めました。
と、同時に何か爆発するような大きな音を聞き、目の前に真っ赤な衣服を見ました。
首のあたりには大きな飾りも見えました。
夫にはローマの兵士だったといったのですが、本当のところは分かりません。
映画や絵画で見たような衣服でした。
当時(?)、ちょうどキリストがそこで生きていたころは赤い服は非常に高価だったとか。
キリストが身に付けていた衣服も彼を拘束していた、あるいは刑に処したローマ兵たちがかけ事をして誰がもらい受けるか決めたと記録に残っているとか。
キリスト以降のヨーロッパでも衣服はべらぼうに高価で車くらいの値段がしたとか聞きました。
衣服は目に入らなかったのですが、他にも様々に不思議な経験をしました。
イタリア、シシリア島には2週間滞在したのですが、そこのホテルでは、私が夫殺しの犯人にされる夢を見ました。
実際にその部屋で殺人事件が起こったのかどうか分からないのですが、浴室に夫がタキシードを着こんで(夢の中でも珍しい格好です。普通はそんな恰好とは縁がない人なので)倒れていました。
私が犯人だと指をさされているところで目が覚めました。
で、冷めた途端に左腕を誰かにぽんと叩かれてしまいました。
誰もいませんでしたが、見えなくても誰かいたのは確かです。
夫もすぐに目を覚まし、膝をコブラに噛まれて大変なことになっている夢をみたといっておりました。
そこにいた目には見えなかった人たちはそんな経験をした人たちだったのでしょうね。
夫のコブラに噛まれるシーンは、実にリアルな感じがしたと言っておりました。
この島では地震があったりでものすごい数の人たちが亡くなっている、と夫は言っていました。
歴史がある土地です。
様々な人たちの念が残っているかもしれませんね。
もう一度おかしな夢をみたのはアイスランドでのこと。
そこのホテルでは2人とも毎晩、妙な夢ばかり見ました。
夫は娘が誘拐される夢をみたとか・・・。
私は2晩続けて首を絞められる夢をみましたし。
一度は仏壇の前で祖父が泣いている夢・・・よく見ると夫で、涙を流していました。
仏壇が出てきた夢もあの時だけです。
他にもあちこちで不思議なことが起こりましたが、それはまたの機会に・・・。
真夏のミステリーゾーン?
皆さんは訳の分からない、説明がつかない何かにはまってしまったことがありますか?
五年くらい前になるでしょうか、夏のある日、私はパスポートが切れそうなので申請に行ったのです。
いくらもともとこの地の人間ではないと言っても、もう30年余り住んでいます。
そして市役所への道はどれだけ歩いたか数えきれないほど通った道なのです。
ちょうどそのころ市役所の西側が新築中、旧庁舎も改築中でいつもとは違うは入り口を利用し、いつもとは違う出口から出ることになって何か勝手が違ったのは確かです。
しかし、いったん出てしまえば、いつもと何ら変わる事のない道が目の前にあり、そこをひたすら我が家へ向かえばよかったのです。
弱い雨が降っていました。
市役所から出ると車道を横切って、もう少しまっすぐ進んで落ち着ける小道を通ることにしたのです。
それがどうも見たこともないお店ばかりが並んでいました。
あれ?と思いながらももうしばらく進みました。
ふと、傘を傾けて左側にある景色を見ると、そこには下関の海峡から見える向かいの港、見慣れた門司港の景色が広がっていました。
何も考えずそのまま歩いていくと、ついには下関駅着いてしまう道を私はひたすら10分も歩いていたのです。
西に向かって・・・
自分では北に向かっているつもりでした。
すぐに引き返して市役所から出て横切った道に戻りました。
そして、もう一回角っこを曲がったように思えます.
(ここのところが分からないのです。行きは曲がった覚えがない。そして、気がついたら西に向かっていたという道に市役所から行きつくには道路を渡ってから我が家に向かっての右折ではなく左折しなければならなかったはずなのです。誰か説明できたらしてください)
すると道のわきにいつものポストがちゃんと見えました。
あれから何度もその道へ戻りましたが、2度とその先の訳の分からない道を試そうとは思いませんでした。
知人に言うと、ついに痴呆が始まったか、などと言われてしまいました。