藪医者 quack doctor

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3回目のワクチン接種、皆さんはもう済まれましたか?

私はやっと昨日済みました。

前回の時もなかなか予約が入れられなくて困りました(それは市の方の不手際、というのも理由)が、夫のかかりつけの医師の所でなんとか済ませていました。

それが、今回はそのクリニックでは接種をしないという方針だと告げられたのです。

残された選択肢は、集団接種会場に出向くか、ほかの医師を捜すかでした。

で、私は私のかかりつけの医師の所でお願いしようとしたわけです(その時はいつもの血圧の薬を頂きに行っていた)。

原則として前回そこで接種した人だけ受け付けている、と言われました。

どうすりゃいんじゃ?

数日たって、もう一度その医師のところに何とかならないか、と聞いてみました。

今度は電話で。

そうしたら、前そこで接種している云々の話をする前に、OKという返事がきました。

これ、どう解釈しましょうか?

なんか訳の分からないもやもやが昨日までずっとありました。

とにかくそのもやもやをすっきりさせねば、と昨日まず受付で「どうして?」と問いただそうとしましたが、いつもの受付の人がいなくて要領を得ない返事がきました。

で、接種の時に、医師にそのことを言ったのです。

そこからです、問題は。

私のもやもやは一応解決しましたが、なんで私が怒られなければならない?という事態になったのです。

医師との会話です。

私:こうこうで断られたのに電話でお願いしようとしたら、何も聞かれもせずすぐにOK 

  だったのだけどどういうことですか?

この段階で、早くも医師は怒りの口調でした。

つべこべ文句は聞きたいない、という感じで。

医師:ワクチンが足りないから、前ここで接種した人しか受け付けない様にと保健所か

   ら要請があった。

私:じゃあ、最初にお願いしようとしたときにそのことを言ってくれれば納得したの  

  に。

医師:そんなことを一人一人に言っている暇はない。

私:じゃあ、紙にでも書いて張り出してくれればよかったでしょう。

医師はここで居直って、さらに怒って

医師:接種するつもりか、どうなんか?気に入らなかったら他に行ってもらえばいいか 

   ら。

私:お願いします。そのためにお願いしてこんな話になってしまったんですから。

医師:じゃあ、いいんだね?。

私:はい、お願いします。

医師はずっと怒った口調でした。

こんなこと初めてです。

その日のすべての人の接種が終わってから、私はいつもの血圧の薬をもらって帰ったのですが、その時には医師はいつもの医師に戻っていました。

というより、いつもより口数が多かった…少し、反省していたのでしょうか。

接種の方は1回きりの人も多いかもしれないけどいつもの患者にはもっと丁寧にしておかなければ、位に思ったのでしょうか。

何しろ町の開業医ですから。

夫は違うクリニックを捜したら、などと言っております。

ずっと以前、ここに引越しした頃は近くに2,3の大きな病院があり歯医者でも内科でもそこに行けばよかったのですが、全国の市町と一緒で、この町もドーナツ化現象が起こっており、私がお世話になっていた2病院がたどり着くのに1時間はかかるところに引っ越してしまいました。

おまけに、今じゃ、まずはクリニックに行って診てもらってというシステムになっていますしね。

で、とにかく近い方がいい。

ここから150メートルくらいのところにデンタルクリニックがオープンした時には喜びました。

挨拶状が届いた時にはいの一番に見学に行き予約を入れてきました・・・

実際には「見学をどうぞ」と言われていた日には行ったものの、半日早すぎでした。

まあ、一番乗りで診療用の椅子に座らせてもらいました。

だのに、そこにはもう行っていません。

親知らずを抜きましょう、ということになり、その施工日に私はその気になって行っていました。

しかし、いざ、その段階になって「一度様子を見ましょうか」になり、次は「ここではできない」と言われ、市内の~ならできる、と言われたのです。

そんなことありえます?

できないなら最初からできないと言ってくれてたら・・・そうではないですか?

信頼を失くしました。

もう一つはその歯医者さんでは皆の歯にブラシをかけるのに同じ歯ブラシを使う事。

これ普通ですか?

娘が文句を言ったら「我慢してください」と言われたそうです。

その歯医者さんの隣に整形の医院があります。

数年前、膝が痛くなり水がたまった時、初めてそこを訪れました。

レントゲンを撮って、骨には異状ないことを確認して、終わりに飲み薬と張り薬を出して終わりです。

近所の人も数人そこに行ったようですが、どうもわからないのは人によって治療の様子が違うこと。

電気を当てたり、マッサージをしたり・・・。

そして彼らは治ったみたいです。

私も少しは良くなった・・・ただし薬は最初のころ、半年くらい頂いただけ、後は気力と日々の「動き」で良くなったような気がします。

私はこの医師のことをヤブだと言っています。

理由は様々にあるのです。

ある生徒さんが首の筋かどこかおかしくなってこの医師の所に行ったら、例によってお薬をくれてお酒を飲んで薬を服用してもいい、と言ったとか。

結果として生徒さんは気分が悪くなり、二度とその医師の所へは行かない、ということになりました。

今、夫がこのドクターのところに通っています。

昨年、手術でお世話になった病院の紹介なのです。

私が「ヤブ」だと言っているのに、夫はその医師と友達になったと言っています。

性格が合うのでしょうか?

私は同類か?と言っているのですが。

藪医者とは英語でquack doctorと言いますが、アヒルの様に声高に膏薬の効能を唱えたが、全然効き目がなかった、この事からにせ医者、藪医者のことをこう呼ぶようになったそうです。

16世紀のオランダ語、kwaksalver(膏薬salveの行商人)が語源だそうです。

それにしても、これから年とともにお医者さんにご厄介になる回数は増えるだろうに世の中こんな医者ばかりでいいのだろうか?

 

Now We Are Six 六っつだぞ by A. A. Milne

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ミルンの上記の題名の詩を訳してみました。

昨日の記事に続き、年に関係した詩をアップしてみました。

イギリスでは人生において6歳、60歳というと何かしら重要な年ということでしょうか。

それとも6という数字に何らかの意味があるのでしょうか。

ミルンはあの『熊のプーさん Winnie the Pooh』を書いた作家です。

 

六っつだぞ

一つの時、僕は何もかも初めてだった

二つの時、僕はまるっきり生まれたて

三つの時、僕はまだまだ僕ではなかった

四つの時、僕はまだまだ大きくなかった

五つの時、僕は何とか生きていた

だけど、今、僕は六つ

僕はありったけお利口さん

だから僕はいつまでもずっと六つでいよう

goldencat -cherry訳

 

NOW WE ARE SIX

When I was One,

I had just begun.

When I was Two,

I was nearly new.

When I was Three,

I was hardly me.

When I was Four,

I was not much more.

When I was Five,

I was just alive.

But now I am Six,

I'm as clever as clever,

So I think I'll be six now for ever and ever. 

 

6歳の時を思い出しましたか?

幼稚園の卒園式、小学校の入学式、などなどはるか昔になってしまいましたが、はっきりと思い出します。

6歳の時と60歳の時を比べると、どうなんでしょう?

6歳の時の方がはるかに自由だった?

時間だけでなく考え方や全てが?

行動範囲も私なり、6歳なりの世界の中を自由に移動していたような気がする・・・

近所中の台所、家の中を我が物顔で歩いていたような気がする

近所中の台所、家を知っていた私

近所中の人たちが昔からの知り合いで、彼らは私よりはるか昔から生きていた人たちなのに

私と同じ時からそこに存在しているように感じていた

そこは私の古里

はるか遠い昔にそこを旅だった気がする

長い長い年月

その間,なまりは消えてしまった

私はそこの人たちのなまりをもう喋らない

だのに、そこに帰るともうそのなまりで喋っている

なぜなんだろう

古里って、そんなもの・・?

 

書いていたら、詩になって来た。

それにしても、幼い時の無邪気な思い出って自分ながらいいなあ、と思います。

何かを一生懸命待っていたとか、なにかを一生懸命見つめていたとか、なにかが絶対こうだ、と思い込んでいたとか、いや、本当はこうなんだとか。

古里、幼年時代、と書き始めるだけで物語が書けそうです!

 

warning 警告

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60歳になるってことは他の年に比べ重大な事なのでしょうか?

日本には還暦という言葉もありますものね。

海外では誕生日のお祝いをするということは、年毎の一大行事のようです。

ノルウェーでは30歳とか、40歳というような10年毎の誕生日が特に大事なようです。

そして、60歳…ノルウェーでは別に特別な事ではないようですが、イギリスでは

somethingなのでしょうか。

イギリスの詩人、Jenny Josephが書いた詩がここにあります。

タイトルは『警告』

60歳になったら紫色の衣服を着衣し・・・などとあります。

60歳になったらどんな色の服を着る・・・なんて考えたことがありますか?

紫色ってそんなに気を付けなければならない色なのでしょうか?

この詩のことでイギリスの友人などに紫色について聞きましたが、気になるコメントはいただけませんでした。

ある人は、この詩の中の紫に対しての意見は単にこの詩人が持っている思いだけだろう、などと言っておりました。

オーストラリアの友人は自分は紫色が好きで周りの人には「紫夫人Lady Purple」などと呼ばれていると言っていました。

私も紫色、大好きなのですが、この詩を読むとイギリスでは紫は気がおかしくなった人が着る色か、と思ってみたりもしました。

さて、『警告』という詩です。

When I am an old woman I shall wear purple

With a red hat which doesn’tgo, and doesn't suit me.

And I shall spend my pension on brandy and summer gloves

And satin sandals, and say we 've no money for butter.

I shall sit down on the pavement when I'm tired. 

And gobble up samples in shops and press alarm bells

And run my stick along the public railings

And make up for the sobriety of my youth.

I shall go out in my slippers in the rain

And pick flowers in other people's gardens

And learn to spit.

 

You can wear terrible shirts and grow more fat

And eat three pounds of susages at a go

Or only bread and pickle for a week

And hoard pens and pencils and beermats and things in boxes.

 

But now we must have clothes that keep us dry

And pay our rent and not swear in the street 

And set a good example for the children.

We must have friends to dinner and read the papers.

 

But maybe I ought to practice a little?

So people who know me are not too shocked and surprised 

When suddenly I am old, and start to wear purple.

 

by Jenny Jopseph

1992

 

私が年をとったら、紫色の服を着、それに似合いもしない赤い帽子を着てやる。

それから、ブランデー、夏の手袋、サテン製のサンダルに年金を費やし、バターのお金なんてない、と言ってやる。

疲れたら歩道に座り込み、お店の試供品をパクっと食べ、警報ボタンを押し、手すりに杖をはわせる、それで私の若さを埋め合わせるんだ。

雨の中、私はスリッパで外に出てやる、そして他人の庭で花をむしり、ツバキをはきかけることを習得する。

ひどいシャツを着てもっと太ってもいい、一度に3ポンドものソーセージ、それとも、1週間に食べるのはパンとピクルスだけだったり、買いあさったペン、鉛筆、ビールのマットなどもろもろのものを箱に入れるんだ。

しかし、今はちゃんとした衣服を着ておく必要がある、そして家賃を払い、通りで悪態をついたりしてはだめ、子供たちのためにいい模範を示さなければならない。

食事に友人を招いたり新聞を読んだりしなければ。

しかし、今、たぶん少し練習する必要があるのではないだろうか?

そうすれば、私のことを知っている人たちは、私が突然年よりになり紫色を着るようになっても余りのショックや驚きということがないだろうから。

goldencat cherry訳です。

 

やはり、60歳という年は何か特別な年なのでしょうか?

私はとっくの、随分と前にその年は通り越してしまいましたが、実際その年を迎えた時、「年寄り」の仲間入りをしたように感じました。

皆さんはいかがですか?

後は、60過ぎると皆一緒と周りの人にも言っています。

 

Vladimir once was a lovely baby! 赤ちゃん、かわいいですよね Roald Dahl作の赤ちゃんについての作品

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Roald Dahlという作家のことは『チャーリーとチョコレート工場』という物語を書いた人、と言えば皆さん良くご存じだと思います。

ノルウェー人ですが、日本のKazuo Ishiguroと同じように、彼のお父さんの仕事の関係でイギリスに長く住み英語で著述をした人です。

今日は彼の物語の一つをご紹介したいと思います。

タイトルはすっかり忘れてしまいました。

何しろ、読んだのがノルウェーで、しかも英語で、40年余り前のことなので。

さて、物語のスタートです・・・

ある国の国境近くの村に、今まさに、新しい命が誕生しようとしていました。

以前、その妊婦さんは何回も流産したことがあり、彼女はもちろん彼女の夫も切に今回は・・・と望んでいました。

たいへんな難産・・・

今回もだめ・・・どころか妊婦さんの命までも危うい状態でした。

つらい時間がどれくらい続いたのでしょうか。

夜が開けようとし光が差し込み始めた時、産室も大きな産声とともに一挙に明るくなりました。

そこには元気な男の子が生まれていました。

長い間待ちに待った赤ちゃん、男の子だったのです。

さあ、皆さん、彼らのために神に感謝しましょうか?

Shall we thank God for them?

彼らのために皆さんも幸せだと思いますか?

Are you happy for them?

これは作者の写真です。

典型的なノルウェー人だと思います。

1990年だったか74歳で亡くなっています。

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さて、お話を元に戻しましょう。

幸せいっぱいの両親はその男の子にAdolfと名付けました。

これが落ちなのです。

要するにその子はAdolf Hitlerなのです。

お話を読み進むうちにその両親のために赤ちゃんが生まれたことは最高に良かった事だと考えます。

が、実際には、世の中のためにはそれは禍でしかなかった、というお話。

ブラックユーモアです。

しかし、ヒットラーにしてもプーチンにしても両親がいたわけで、わが子があのような行状を行ってしまうということを知ったら非常に悲しむでしょうね。

誰も悪魔のような者が自分の子供とは思わない、悪魔のような所業をする者を育てたいと思ったはずはないはず。

私は様々な不遇の人たち、あるいは悪者と言われる人々を見るといつも彼らもかわいい赤ちゃんの時代があった、それを慈しみ愛していた親がいた・・・と思ってしまうのです。

いつからプーチンはあのような怪物になったのでしょう。

彼は不遇な時代を過ごした、非常に貧しかったと聞きました。

富と権力を握った今の彼はその反動から自分の思うままに握ったものを離さない様にしようとしている、それどころかその握れるものをもっと増やそうとしているのでしょうか。

ノルウェーにおいてすごく貧しかったが今は富を握った、という人を数人知っていますが、私にはどうもわかりません。

人に施し、あるいはプレゼント、などなどということをするような人たちではありません。

子供はいない、ペットもいない、夫婦2人だけ。

時間はあるがボランティアをするわけでもない。

ある意味、暇を持て余し昔の思い出の中に生きているって感じ・・・たいていはいいことじゃなくて。

進歩も何もない人たちです。

握ったお金はblack moneyだから銀行に入れられない・・・。

どう頑張ったっていつかはこの世からいなくなる私たちなのに、彼らはどう思っているのか。

てんぷらの理想的な食べ方をしていた江戸時代の人たち

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てんぷらはこう食するべし、と語っていたのは、誰だったでしょうか。
てんぷら屋に行って食べるのは、お腹を空かして行き、親の敵にでも出会ったかのようにてんぷらを揚げるそばからかぶりつくように食べなけれなならない、とか。

そんな食べ方を皆さんはなさっていますか?

実際、揚げたてのてんぷらの味は格別ではないでしょうか。

してみると、作りながら味見している私が一番美味しいものを食べている?

てんぷら専門店の多くがカウンター形式になっているのは、まさに、揚げるそばから口へ・・・という配慮から生まれたものとか。

江戸時代のてんぷら屋は屋台での店で、庶民が立ち寄りやすく揚げたてを食べていた、ということです。

江戸時代には、まだ油の精製技術が良くなくて油のにおいがひどかったようで、屋内では到底揚げ物の商売はできず、屋外での屋台、という形態をとらざるを得なかったよう。

しかし、江戸の庶民は図らずもてんぷらの理想的な食べ方を実行していたというわけですよね。

今じゃ、レンジもあり、冷めたものもすぐに温かくはなるものの、それは、やはり時間に追われる現代人が我慢しなければならないことでしょうか。

てんぷらは室町時代ポルトガル人によって伝えられた油で揚げる魚料理の事だっようです。

しかし、その後、各地で独自の工夫が施され様々に変化をとげて今の形に。

さつま揚げもポルトガル人が伝えたてんぷらの変形だと言われているそうです。

今じゃ、てんぷらも国際的料理ですものね。

tempuraという綴りで通じます。

他に、sake, tofu, miso, ramen,  odenなども。

我が家では冬の間おでんをよく作りますが、夫はどうもこの名前を言うのが苦手みたいで、いつまでたっても「うでん」などと言っております。

miso, tofu, ramenなどはロンドンでも売られていました。

the Book of Misoなどという本も出版されているほどです。

てんぷらはtenpura  でもOKですが、tempuraのほうがより一般的なようです。

ごうやてんぷるもgouya templeとてんぷるのほうは英語的に綴られて紹介されています。

ちなみに天麩羅という漢字ですが、その字をを当てて使うようにしたのは江戸時代の戯作者山東京伝だそうです。

 

 

 

コロッケ作り

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ノルウェーに住んでいた時、一度だけですが、お義母さんがコロッケを作るというので手伝ったことがありました。

私が長年、日本で親しんできたコロッケ、と思って随分時間がかかるわ、と思って臨んだのですが、オーブンの中に材料を入れただけで何も私は他にすることがありませんでした。

どういう事か分かります?

一番、最初に材料を手に取るところから大違いだったのです。

魚コロッケでした。

それでも、ここまで書くと、じゃあ、ジャガイモの中に魚が入っていたわけね、と思われる方も多いかもですが、それも違うのです。

材料を見た段階で、私はそれを揚げ物にするとしたら魚のフライができる、と思ってしまったわけです。

すぐにそれは揚げ物ではなかったことが判明しました。

お義母さんが揚げ物をしているのを見たのはドーナツつくりの時だけです。

さて、お義母さんの言うコロッケ作りです。

オーブントレイにバターを敷きその上に魚を並べ、その上に粉をふりかけ、仕上げはたっぷりのバターを塊のままあちこちに置きオーブンで焼く、という料理でした。

お義母さんはパン粉と言うものの存在を知らないのじゃないか、とその時私は思ってしまいました。

出来上がったのは粉が付いた分、かりっと仕上がったオーブン料理にしか見えなかったんだけどなあ。いう

それで、夫にノルウェーのコロッケについて聞いてみたというわけです。

私は日本のものと同じものが絶対にあると思っていたのです。

コロッケはあるにはあるけど日本のものと同じものはない、という返事が返ってきました。

魚コロッケと呼ばれるものは、私に言わせると、単に魚にパン粉を付けてあげた(?)もの。

確かに、そういう料理が出来上がるだろう冷凍品がコロッケという名前で売られています。

他の素材のものも何々コロッケという名前があったとしても、同様にパン粉を付けて揚げてあるのだということが判明しました。

ただし、先ほども書いたようにお義母さんの頭の中にあげ物、という調理法は存在しないようでした。

ずっと日本のコロッケのことしか頭にない私は日本にコロッケが初めてもたらされたときの話を思い出さなければなりませんでした。

結局のところ、日本のコロッケって、日本人向けに作り替えられてきたんですよね。

日本のコロッケが本来の姿、味と思い込んでしまっていた私は反省しました。

だいたいクロケットという料理名もクロケットが英語でコロッケがフランス語だと思い込んでいたのです・・・長いこと。

しかも、その2品が同じものとは思っていなかったんだから。

英語にはコロッケという言葉はありません。

コロッケという言葉はフランス語のcroquette 、あるいはオランダ語のkroketから日本語になったようです。

私自身は何回も日本のコロッケをノルウェーで作りました。

ただし、一番最初はとんでもないことになりました。

想像がつきますか?

スーパーにパン粉を買いに行ったのですが、なかなか見つからない・・・なんとか見つけて買って帰りました。

が、それはパン粉ではなかったのです。

40数年前のことです。

今ならノルウェーにもパン粉が売られているかもしれません。

そして、今なら私がその時間違えて買ったものは日本でも売られています。

しかし、当時の私はそれを初めて見、パン粉に違いないと思ったのです。

ココヤシの粉・・・お菓子用でした、しかし、見た目はパン粉と同じではないですか?

パン粉が売られていないと判明してから、それは日本から送ってもらうか、自分で固くなったパンをおろして使うようになりました。

日本のコロッケですが、あちらのみんなに好評でしたよ。

あのジャガイモ大好きの国でなんでジャガイモコロッケがないんだろう?

今もそう・・・結局、揚げ物料理をするという発想がないからでしょうか。

屋根の上に瓶が3本

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トルコに旅されたことがありますか?

ツアーグループに入って旅すると主な観光地だけ回り、その地の人々の生活などディテイルは目に入ることがないのかもしれません。

イスタンブールだけでなく、トルコの田舎をバスで回られた方は(私たちは20数年前、トルコの各地をバスで巡るツアーに参加しました)、これから私が書こうとしているものを目にされたことがあったかもしれません。

家の屋根の上に瓶が2本とか3本とか置いてあったりするのです。

コカ・コーラの瓶が、実際、立っているのを私たちは何回も見ました。

あれって簡単に落ちないように接着剤ででもつけて張り付けているのでしょうか。

そのツアーの前、40数年前にトルコの友人を訪ねて行ったときに屋根の上の瓶の習慣については教えてくれていましたが、ツアーで旅した時にもっと詳しくどういった習慣か知ることができました。

とりあえず質問です。

この瓶、どういうことかお分かりになりますか?

「我が家には結婚適齢期の息子がいます。今、お嫁さんを募集しています」というサインなのだそうです。

私の友人、および、そのツアーのガイドさんからはそんな説明がありました。

ただし、後に調べて見ましたら、屋根の上の瓶は結婚適齢期の娘がいますよ、というサインだともありました。

そして、その家の娘が気に入り、嫁に貰いたいと思った男性は申し込みに行き、その瓶を取り外して壊してもいい、とありました。

そして、娘がその結婚を承諾すると、以前、記事にてお話した「あまーいコーヒー、砂糖いっぱいのコーヒー」を供するのです。

ちょっとばかりの甘さだったら、「今考え中」、何も入っていない苦いコーヒーだったら「お断り」だそうです。

この習慣がいつごろから始まったか聞きそびれてしまいましたが、ガラスが、ガラス瓶がまだ高級品だったころの名残なのでしょうか。

「我が家にはこんな高級なものがあります…」というアピールだったのでしょうか。

ブッシュマン』の映画の中で、ニカワさんが自分が拾った瓶が何物か分からず、様々な事件を経て「こんなもの神様にお返しします」と言いながら、大西洋に捨ててしまうといったエピソードが描かれていたのを思い出しました。

それが一体何か分からない人にとっては瓶もそんなものかもわかりませんね。

ガラス自体は紀元前にはもう人々の生活の中に存在した様ですが、瓶として使われるようになったのはそんな昔ではないのでしょうか。

我が家の娘も含めて近頃の若者はなかなか結婚する気にはならないようです。

屋根の上に瓶をおいてみましょうか?