インドの言語 サンスクリット語
ノルウェーに住んでいた時のことです。ある友人が一冊の本を見せてくれました。
インド人はインドアーリア人と呼ばれ、人種的にはヨーロッパ人と同じだという事は 歴史の教科として学習しましたが、それが証明できるという具体的なことが書いてある本を目にすることは大変新鮮でした。
その本は、インド、パンジャブ(その地の衣服がパジャマの語源になっているということで有名ですよね)で話されている言語が非常に英語に似ている、と様々な言葉を例に論説してありました。
father, brotherなど、もちろんスぺルは全く同じというわけではありませんでしたが、説明されなくてもそれらがどういう言葉か理解できるほど近いものでした。
その後、随分な年月が経ちました。その後、知りえたことを書いてみたいと思います。
インドは大英帝国の植民地だったわけですが、植民地時代にその地に赴任していた英国のウイリアム・ジョーンズがサンスクリット語を研究しているうちに、それがギリシャ語やラテン語と多くの共通点を持っていることに気がついたのです。植民地の人間たちとして虐げられている人々が自分たちと同じ祖を持つアーリア人だということに気がついたのです。長い歴史の上では、ほんの少し前、18世紀後半のことでした。
サンスクリット語はヨーロッパの言語と同じ系列であることが発見されたのでした。
インドは厳しいカースト制度が今も生きている国として知られていますが、カーストの一番下に置かれてしまった人々は、インドのもともとのnatives先住民でした。アーリア人がインドに侵入し、先住民との間に身分差別を作り出したのです。そのことにこの制度は由来します。アーリア人は自分たちの中から宗教に携わる人々であるバラモンを頂点にnativesをカーストの底辺に置きました。
その後、何百年後には、彼ら自身もあとからやって来たヨーロッパ人、つまり、英国人に支配されていきました。皮肉ですね。
大英帝国の植民地時代もえんえんとカースト制度は生き続け底辺の人々は虐げられていました。
そこへ、新しい宗教が西方からやってきました。それがイスラム教です。その宗教は誰でも受け入れてくれるというものでした。底辺の底辺の人々は神に救いを求めたのです。
彼らはイスラム教に改宗していきました。その後、その人たちはインドから独立し自分たちだけの国を建設することを望みました。それがパキスタンと言う新しい国になったのです。
さて、サンスクリット語ですが、この言語って日本になじみは多いようですよ。
ここ仏教の国、日本ではその宗教を通して私たちが日々使っている言葉の中にも知らず知らずのうちに、元はサンスクリット語だったものが入り込み日本語になっています。
将来、未来、運命、乞食などなどです。これらの言葉の意味をじっくりと考えてみると、なるほど、と思えてきますよね。最初にサンスクリット語の言葉があり、それに漢字をあてはめたものでしょう。今度、中国の友人にこれらの言葉が中国語でも全く日本語の意味と同じかどうか聞いてみようと思います。
南無はname((名前を挙げて尊ぶ、唱える)、阿弥陀は ameter( a は否定、 meterは測る、つまり、無量)はかり知れぬ、 Buddha(仏)という事なのです。
name a mmeter Buddha 「はかり知れぬ偉大な仏の名をあがめ唱えよ」となるのです。
卒塔婆も日本語になってしまっていますが、東南アジアを旅するとそれがどういうものであるかよくわかります。私にとっては卒塔婆は木でできたものなのですが、実際のものは違います。
私が初めて仏舎利を見たのは姫路でだったような気がします。
仏舎利塔も卒塔婆の形をしています。大きなものから小さいものまであらゆる遺跡で目にすることができます。小さいものは日本で普通に目にすることができる墓石大で、丸くなく長方形だったりします。
つまり、日本の墓石は卒塔婆の形からからあのような形になったのでしょう。
仏舎利塔は英語ではstupaとして紹介されています。
なお、宮城県のなまりを考えるうえでぴったりくるのがインドタミール地方の言葉ですって。日本語によく似た言葉、そして宮城のなまりにそって論説すると納得がいく言葉がたくさんあるそうです。日本のご先祖様の一派がインドから日本に流れてきたのでしょうか。