Mother's Day 母の日
お隣の庭にも鉢植えのカーネーションがお子さんから届いたようでお子さんたちの心を想像しています。
毎年この時期になると・・・です。
お隣さんは毎日のように庭に出てはその世話をしています。
で、私はお母さんの気持ちも想像します。
今日は母の日という事で、私の母と行った旅のお話です。
母が初めて海外旅行に出かけたのは1994年だったかな。
私が計画を立てて妹も一緒にパリに行きました。
Euro Disneyにも行ったりで、3人共童心に帰ったり、気に入った絵を買ったり、「多すぎる」と言いながらレストランで様々な料理を堪能したり・・・今、考えてもいい旅行でした。
母が次に出かけたのはタイだったでしょうか。
計8か国、オーストラリア、シンガポール、マレーシア、韓国、中国(3回)にも一緒に出掛けました。
オーストラリアでは母と妹は花に目がないという事で、シドニーの植物園にも行きました。
世界には日本とは違う閉園の仕方があるってこと、想像つきますか?
開園時間は気を付けて見なかったのですが、たぶん決まった時間なのだと思います。
母と妹が花を見だすと随分時間がかかります。
特に時間がかかった薔薇園に行きついた頃は、確かに数人の子供たちがそのあたりで遊んでいました。
他の観光客もいました。
が、辺りが暗くなり始めると、日が沈みかけた途端、急に人影がなくなり、声も聞こえなくなり静まり返ってしまいました。
この先はちょっとしたドラマが書けそうなお話に展開です。
この国では閉園時間は決まっていない、それは日没時という事は分かっていました。
それがそんなに早くやってくるとは。
園から出なくてはならない・・・
しかし出入り口はどこもすでに閉まっている・・・。
私たちは様々なことを考えました。
私たちの背よりはるかに高い鉄柵を何とかして乗り越える?
私たち若い者は仮にできたとしても母は無理か。
じゃあ、次の日の朝までその辺で「野宿」をするか・・・
作の外は車道で多くの車が絶えず走り去っていました。
大声を出しても聞こえなかったでしょう。
などなどと考えながら、とにかく出口を求めて歩き回りました。
途中で反対方向からやって来たオランダの夫婦やら数人の同じ目にあっている人たちにも会いました。
反対方向からやって来た、という事は私たちがむかっている方面にも出口はない、ということ。
まるでmaze迷路でした。
そうこうしているうちに、車の光が見えて、それは私たちの方にだんだん近付いてき、やっと私たちは救助されたというわけです。
救助という言葉はちょっとオーバー?
しかし、その車はレスキュー車と呼ばれていました。
という事は、毎夕、私たちと同じ目にあっている人たちがいるわけ・・・。
次のひどい目にあったというお話は中国、大連でのことです。
母と夫、それに私という個人旅行だったのですが、まあまあのホテルに泊まっていたと思います。
ある日、私がひどい腹痛に襲われたのです。
次の日は観光どころではありませんでした。
原因は食事だったのでしょうか。
実際のところは分かりませんが、ホテルの部屋で寝込んでいて分かったことがありました。
house-keeperの人が部屋の掃除に来てくれたのですが、部屋にあるカップなど、彼女はそのあたりを拭く布、早い話が同じ布(雑巾?)で、テーブルもカップも拭いていました。
そんなんじゃあ、私たちが何も考えずお茶でも作ってそれで飲んだら病気にならない方がおかしいではないですか。
知った時には遅かりしでした。
母もお腹の調子が悪くなって次の日は寝込んでしまいました。
どれくらいの旅だったか覚えていないのですが、7~10日間だったでしょうか。
帰国する頃には私は治っていましたが、母はまだ調子悪く夫と私が観光で出ている間も、部屋で休んでいました。
今、考えると、私も何を考えていたのか・・・
観光しながら病院が目に入ると、母をこの病院に置いたまま帰国することになるのか、などととんでもないことを思っていました。
帰国する日、母は気丈に起きだして一緒に帰りました。
母は母で「こんなところに置き去りにされてたまるものか」なんて思っていたのでしょうね。
彼女の再びの中国旅行はまたもや大連へ。
それは個人でなくツアーに入ってのことでした。
ただし、他に人が集まらなかったのでしょうか、母の弟とその奥さん、そして母と私だけでした。
雨が降っていたのですが、母はしっかりした足取り、自分の足で203高地に登り観光もしました。
もうすぐ私がその時の母の年です。
母のように私が達者に山に登れるかどうかは疑問です。
再度、叔父夫婦と出かけたのは台湾でした。
この時には妹も一緒でした。
ちょうど帰りの日が母の78歳の誕生日だったのです。
スチュアーデスにお願いしてお祝いをしていただきました。
機内通路を3人のスチュアーデスがケーキを持って歩き、母に持って来てくれました。
ちょっとした絵に見えましたよ。
赤く燃えるキャンドルですべてがもっと暖かく思えました。
私たちにもシャンペーンのサービスがありました。
母の目には涙が・・・
その旅が母には最期の海外旅行になりましたが、すべてがいい思い出です。
先月、実家に帰った時も、また、それらの思い出がいっぱい詰まった写真のアルバムが出て来て様々な思い出話をしました。
さて、パリ行きにのぞんでは、フランス語は全然喋れなかったのですが、夫に必要なフレーズだけ特訓してもらい、「~はどこですか?」、「~が欲しいです}などなど、随分役に立ちました。
旅って現地の言葉を少しでも喋れるともっと楽しくなります。