シンデレラのレンズ豆 lentil
シンデレラのガラスの靴ってこんなのかなあ、と思ってこのイラストを選んでしまったのですが、シンデレラのお話の中では、本当はshoesなんて表現は出てきません。
slippersスリッパ(部屋履きという感じの靴だと思います。つまり、ヒールなんてない軽めの靴)とあります。
日本では家の中で普通の靴を履いている人はそういないと思うのですが、どうでしょう?
40年近く前、ドイツからやって来たお客さんは自分が家で履いているスリッパ(黒い革製の立派なもの。私たちが彼の家を訪ねた時もそれを履いていました)をスーツケースに入れて持参していました。
日本ではどういった家屋に住みどんな気候でとかを全然把握もせず来日した彼もどうかと思いましたが、随分と無駄なものを持ってきており、結局、大きな段ボールで送り返していました。
何しろ、真夏の8月にやってきて、向こうで毎日身に着けていた(見たことありました)布製の帽子にウールのカーディガンも持って来ていましたので。
さて、シンデレラのお話です。
ひよこ豆って日本でも売っていますか?
なんでシンデレラとひよこ豆が関係あるかって?
シンデレラのお話の中にちゃんとひよこ豆が登場するのです。
step sistersまま姉たちが舞踏会に出かけるにあたり、シンデレラを行かせまいとして、彼女たちは暖炉の前の灰の中に豆をばらまいてしまいます。
そして、シンデレラにその豆をすべて拾い上げる様に命令する・・・あの豆です。
レンティルlentil,日本語ではレンズマメって呼ばれます。
小さい小さい豆です。
シンデレラのお話を読んだ時、あれほどに小さな豆とは想像が付きませんでした。
日本にはかなりな種類の豆がありますね。
ノルウェーではグリンピーと黄色の丸っこい豆が一般的かな。
これはピースープにします。
豚のリブ肉と一緒にコトコトと煮込みます。
とっても美味しいスープになります。
これも日本にあってもいいのになあと思う料理です。
日本にはあれほどトロトロに形がなくなってしまう豆はこしあんにする豆位でしょうか。
多分同じまめで豆でできているのだと思いますが、イスタンブールでもピースープを頂きました。
ノルウェーのものと同じ舌ざわり、味がしました。
美味しかったので同じレストランに何回か通いました。
ところで日本のお饅頭とかに入っているアンですが、もっと海外においしさを発信したら、と思います。
以前の記事で書きましたが、私はマジパンが大好きです。
あんはマジパンに非常に似通ったものだと思うのです。
日本にやって来たオーストラリアの友人があんが大好きになったことを思い出します。
母国に帰ったら食べる事ができないと毎日口にし、帰国時には相当太っていました。
魚の骨が喉に・・・ 民間療法remedy
魚が食卓に上がる時、魚の骨は気を付けるよう大騒ぎをするのがノルウェー人。
のどにひっかかった、という話はあまりききません。
「ほらいい加減なことをして食べているから」とは言われなかったけど、私がひっかけてしまったことがありました。
幼い時から私はそんなときにはご飯のかたまりを飲み込む、などと言われて育ったのですぐにそうしようとしたのだけど、ノルウェーの台所じゃあ、その場にご飯があるわけでもでもなく・・・。
すぐに骨はなくなりました。
どうしたと思いますか。
お義母さん受伝の方法です。
即効でした。
バナナのかたまりを飲み込んだのです。
これも民間療法のひとつでしょう?
娘が幼稚園に行っていたころのことを思い出しました。
ある夜のことでした。
娘が耳が痛いと言い出したのです。
夜ではあったし、即、医者へ・・・ということもできず「明日まで我慢できる?」などと言っていたら、夫がねぎ療法を言い出しました。
しょうがないからそのようにしたのだけど、あれって効き目はあったのでしょうか。
ねぎを刻んで耳の中に入れました。
実際にはそんなに奥の方ではなかったと思うけど、今考えるととんでもないわ。
鼻血が出だした時には首の後ろを叩く、なんてことをしたことはないですか?
私はそういう場合にはそうする、と幼い時から聞いていたのです。
お義母さんは良く鼻血を出しました。
で、私は即、お義母さんの首の後ろを叩いたのです。
叩かれたお義母さんは無論のこと夫もびっくりしたでしょうね。
いったい何が起こったのかと。
ノルウェーで後にも先にも人を叩いたのはその時だけです。
知らない人はいったい義母を叩くなんてどういう嫁じゃ、と思ったかもしれません。
日本では鼻血が出たらそうする・・・と話して一件落着、大笑いでしたが。
アイルランドにいった時のある教会でのガイドさんの話です。
何百年前のこと、その教会の床板をはがしてそれを煎じて薬として飲んだ、などという話を聞きました。
で、見ての通り床は亡くなってしまっている・・・とのことでした。
今のような薬がなかった昔の人々は藁にも縋る思いで様々なものを試し、そんなものまで効くという結論に至った、ということなんでしょうね。
しかし、自然の中にはまだまだ実際に薬用としてもちいられるであろう可能性のあるもろもろのものが潜んでいるでしょう。
ところで、ツアーに入って海外旅行をすると様々なガイドさんに遭遇します。
その時のガイドさんは、現地のガイドさんの言うremedyという言葉が分からず何回も聞き返していました。
イタリア、ポンペイでは古代の建物のcoating塗装という言葉が分からず四苦八苦していたし。
まあ、こういう言葉は自分が赴くところを考えると事前にチェックはできていたとは思うのですが。
マルタの旅でのガイドさんは現地のガイドさんとさっぱり疎通ができないようで向こうのガイドさんがどうちゃんと訳している?なんて私たちに聞いてくる始末・・・。
時に無茶苦茶に訳していましたので。
ガイドさんもなかなかプロになるのは年季がかかるわ、と思ったものです。
キャベツ料理 フォリコール
ノルウェーの料理で絶対に忘れてはならないキャベツ料理のお話をしましょう。
ノルウェーに住んでいた時、友人一家がやってくるというので、私はちょうどたくさんあったキャベツを使って何かを、と思い料理の本を開けました。
冷蔵庫の中にある食材と照らし合わせ、トマト、ビーフなどなどが入っているシチューを作りました。
トルコ料理です。
美味にできたつもりでした。
人間て、なにかを一瞥すると一瞬で自分の知っているものと照らし合わせ、それが何物かを判断する。
そうみたいですね。
お客さんたちは一目見るなり、自分が知っている料理、味と思ったみたいでした。
しかし、一口食べてみると違っていた、ということだったんだろうと思います。
すぐに彼らの知っている料理、ノルウェー料理の話を始めました。
faarikaalフォリコール、私は知らない料理でした。
フォリとは羊肉、コールとはキャベツのこと、つまり羊肉とキャベツを煮込んだ料理ということでした。
「大きな鍋にかなりな量の羊肉とザクザク大きく切ったキャベツ半個位を層になる様に入れて煮込むんだよ」
「この二つの材料のほかには塩と胡椒だけ」
「水はたくさん入れないで」
「キャベツから水気が出るから」
時間をかけて作り方を教えてくれました。
これは念を押されたことですが「コトコト1日中だって煮ていればいい。煮込んでいる間、そのあたりでも散歩をしていればいいのだから」と。
弱火の電気の熱量で調理するからこそなんでしょうね。
日本で、ガスでそんなことをしたら火事になりかねない、と思ってしまいました。
一度、夫は豆のスープを同様にコトコト煮込んでいて、火にかけているのを忘れてしまってそのまま出かけ、オスロの中央駅辺りまで行って気がついたので家に帰ったとか。
危ない、危ない。
私がお産で入院していた時のことです。
もう一つキャベツの料理。
この料理を私はよく作ります。
沢山作って保管しておけば何かの付け合わせに便利、ということが大きな理由です。
スールコール
スールとはすっぱいという意味。
英語のsourです。
つまり、ドイツにもあるザワークラフトのことです。
この料理はノルウェーでも一般的です。
やっぱり、バイキングの料理には繊細さはないわ、と思ってしまいますが。
コロッケとか豚カツとかに千切りのキャベツは欠かせませんよね。
5.6年前でしたか、山口でボーイスカウト世界大会があった時のことです。
クラスの生徒さんたちと通訳のボランティアをし、世界各国のスカウトに会う事が出来ました。
いい経験をさせてもらいました。
夫はノルウェーのスカウトたちを下関の水族館に案内し、久しぶりにノルウェー語を話せて嬉しかったようだし。
さて、キャベツです・・・アイルランドからのスカウトとの交流があったのですが、毎日宿泊所で夕食にキャベツが出て来てへいこうしている、と言っていました。
やはり、彼らも野菜が欲しくない、なくてもいい人たちかと思ったものです。
ところで、英語でキャベツを数えるにはa head of cabbageなどと「一頭」というような数え方をします。
この絵はキャベツには見えないでしょうか。
ダリが描いた『ビキニと3つのスフィンクス』です。
二度とこんな雲を人類が見る事はない、と信じたいです。
Queen Victoriaがため息をついた果実
マンゴスティン、アボカド、ドリアン、いずれも果物の名前、世界の三珍として重宝されている得難いもの。
アボカドは娘が好きな果物で我が家の台所にもよく見られます。
マンゴスティンはマレー半島の果物でぞうげ色がかった白色の中身は、アイスクリームのような口当たり.
一口食べたビクトリア女王が思わずため息をついたのがこの果物ですって。
南アジアへ旅するとマンゴスティン、ドリアン、それにパッションフルーツやら夫は目の色を変えて毎日のように食べます。
南アメリカで採れるアボカドは「森のバター」と言われているとか。
私がそれを初めて食べたのは40数年前、初めてヨーロッパを訪れた時、スエーデンの友人宅で供された時でした。
そんなに美味しいとは思いませんでしたが。
そのころ、まだ日本では見かけたことがない果物でした。
ドリアンは強烈な臭みを持っている果実。
食べなれるとやめられないという人もいます。
東インド、マレーが原産地でその季節になると飲み物屋や遊び場がめっきり暇になってしまうとか。
どれくらい前のことだったでしょうか。
25年?
出かけたのはシンガポール、マレーシア。
妹、母も同行していました。
大きなドリアンの半分を日本に持って帰る事になったのです。
自分が好きなもので早や妹も一緒に食べれば全部お腹の中に納まる、と思っていたのでしょう。
しかし、あの果物は人によって…まったく受け付けない人もいます。
夫はそれを計算に入れていなかった。
ドリアンってホテルなどにも持ち込まない様にと言われているところもあります。
それを手荷物にして日本に持って帰ったのです。
あの頃だって果物を持って帰ってはいけなかったのでは、と思いますが、誰もそこまで考えていなかった。
飛行機の中でも匂いがしていたのでは・・・。
どこからもコメントは聞こえて履きませんでしたが。
さて、岡山へ帰る母と妹は関西空港で私たちと別れて去りました。
空港で私たちは福岡への乗り継ぎ便を待つのにしばらく座っていました。
ドリアンを足元に置いて。
しばらくすると近くに数人の女性客が座りました。
十分も座っていたでしょうか、一人が言いました。
何か臭いね。
何だろうか。
・・・
彼らは別のところに移っていきました。
ドリアンってうん○にそっくりなにおいがします。
さて、クラスのお土産にキャンディーを持って行きました。
それもドリアン味。
ばっちりその香りもしていました。
やはり、どうしても口には入れられない、という生徒さんが1,2人いました。
まあ、今度南アジアに旅されることがあったら試してみてください!
大正ロマン真っただ中の時代、母は生まれた
母は昨日、誕生日を迎えました。
コロナ禍の中、とうとう今年も誕生日には会いに行けませんでしたが、電話の声はいつもと変わらず元気・・・良かった。
4月に入ったら、折を見て夫と会いに行きたいと思っています。
昨日,母は2世紀目に突入。
いや、それプラス1歳。
1世紀と言えば、どれほどに物事が移り変わったか、私には想像もつかない。
インターネットを開けてみた。
次は大正の子供たちの写真。
皆まだ着物に袴姿・・・一人真ん中に着物ではない少女の姿も見えるような気がする。
母もこんな姿で毎日過ごしていたのだろうなあ。
髪はずっと後ろ側で三つ編みにしていたと聞いた。
一度、小学校での運動会のことを話してくれたことがある。
袴をたくし上げ、下駄は脱いで走った、と言っていた。
私は何と勇ましいことだ、と思ったものだ。
モガとか呼ばれた女性たちの写真
どうも私の母はおしゃれなどしたことはなかったような気がする。
そして、これは子供たちの絵本。
右から読むようになっている、どうもなれないと変。
母が生まれた1921年:
4月11日メートル法公布
5月5日フランス パリでココ・シャネルが初の香水NO5を発売
10月18日ルートヴィッヒ3世バイエル王国最後の国王死去
10月23日ハンガリー王国でオーストリア=ハンガリー帝国皇帝カール1世が逮捕された
(カール1世の復帰運動が失敗)
11月4日原敬首相が東京駅で刺殺された
他にも、この年、魯迅の『阿Q正伝』、小川未明の『赤い蠟燭と人魚』が発表されています。
また、くしくも、3月18日ポーランドとソビエトの間でリガ条約が結ばれ、ポーランドは西ウクライナと西ベラルーシを、ソビエトは残りのウクライ、ナとベラルーシを併合しウクライナ人民共和国政府はフランスに亡命しています。
というわけで、ウクライナという国ははその時点で地球からなくなってしまったわけですよね。
大国の勝手なやり方で。
バイエルン、ハンガリーという王国があったのもほんの100年前だったわけですよね。
インターネット上でこのリガ条約とかの欄に目を通していますと、あるわ、あるわ、次から次へと過去に勃発した戦争の名前が飛び込んできました。
世界では本当にほんの少しの間しか平和はなかったということでしょうか。
どこかで読んだことがあるような気がします。
それは、合計すると歴史上たったの16年だけだと。
ウクライナの人たちいつまでも大国に翻弄されて・・・。
まだユーゴスラビアという国があった時、私たちはそこへ旅したのですが、普通の平和な落ち着ける国ではないと思いました。
絶えず大国に脅かされ戦いばかりあったのでそんな国民性が出来上がったのかと、私たちは思ってしまったのですが、その地のお店に入っても楽しくなかった。
ちょっと見せてください、というわけにはいかない国でした。
何も買わないとすごくにらまれて文句を言われました。
最も、中国、北京では畳んできれいにしているのに私が見るだけで買わないからまた元に戻す、畳みなおさなければならない・・・て文句だけでなくたたかれましたが。
横道にそれました、元に戻します。
大正時代はまだ普通選挙が行われておらず、選挙権を持つのは一部の人たちだけだったとか。
母が4,5歳だった時のサラリーマンの初任給(月給)は50~60円だったとか。
職業婦人の平均月給はタイピストで40円、電話交換手35円、事務員で30円だったそうです。
ただし今と当時では物価がまったく違い、例えば当時のお米の値段は1.5kgで50銭だったとか。
インターネットで目にしたこと、読んだことをまとめて母に送ろうと思っています。
音楽もあの時代の音楽は何か心にふれる、というかいいですね。
今、頭の中で『出船』(というタイトルだったでしょうか)がぐるぐる回っています。
下関出身でもある藤原義江の歌です。
前の戦争が終わった時、母は芦屋にいました。
祖父母たちと終戦とともに岡山に引き上げてそれ以来岡山住まいです。
父はあの爆弾が落ちた時、広島の呉にいました。
父も終戦とともに岡山に帰り、その後、二人は結婚しました。
このまま日本が平和であってくれたらと思います。
どんな色の服を着てもいいじゃない!
いわば、先日の記事の続きです。
60歳になると、あるいはその年を過ぎると特定の色の服を着る必要があるのでしょうか?
皆さんはご自分が若い時に比べて地味目の色を着るようになったとお考えですか?
私は着衣する色が変わってきたとは思えないのですが、薄い色の衣服はどうも苦手、と言った感じになってきました。
それに、青っぽい色も・・・顔色が悪くなる。
さて、私が中学生の時のことです。
ある日、母はベージュ色のブラウスを捜して町中を歩いたのです。
それに私は付き合ったのですが、単にそれは母がその色が好きだから、位にしか思っていませんでした。
今、考えると、それは、30代の母にとってとっても地味な色ではなかったのでしょうか。
そもそもそんな色私は殆ど袖を通したことがないように思えます。
年を取るとともに母の着る服の色はダークになっていきました。
私は母の年を追っかけて行っているわけですが、いまだにかなり明るい色を着ています…赤やら、ワインレッド、トルコ石色などなど。
大きな花柄だって平気です。
妹には「何でそんな色の大きな柄物を着る?」などといつも言われますが。
後、十年たってもそう変わりはないかなと思います。
さて、このカラフルな色の服ですが、まだ日本はいい方です。
なんでだろう、海外では皆の服の色が段々黒っぽくなっている気がします。
ギリシャに旅した時など、飛行機から降りてくる人、次から次へと黒いコート、ジャケット、ズボンで、これは魔女、魔法使いの集団か、魔法使いの集まりがあるのか、と思ったことがありました。
ツアーの中の結婚式を挙げたばかりの新婦さんさえ真っ黒のスーツに花束でした。
夫はそれがギリシャの国民色だから・・・て。
どこを見ても黒っぽい服じゃあ柄物など来ていると目立ちます。
何で皆黒っぽい服ばかり着るのだろう。
スペインとかでは、だれか家族が亡くなると、かなり長く喪に服さなければならないのである程度の年の人たちはずっと黒い服ばかりになる、なんてことは聞いたことがありますが。
私は気がめいりそうなことがあったり、自分を元気つける時には、絶対、赤です!
皆さんは今どんな色の服を着ていますか?
それは私の美術品、宝物だった
今週のお題「わたしのコレクション」
人間にとって何か集めるということは生まれ持ったもの、本能ではないでしょうか。
何かと言えばついつい集めてしまう・・・。
様々なものを収集してきましたが、一番長続きし熱心だったのは切手収集。
小学校6年生くらいから始め、次の年には海外のペンパルを求め、海外からも手紙が届くようになったため外国の切手も集めるようになっていた。
20代までコツコツと集め、最終的にその段階で25,000種はあったと思う。
ノルウェーに住んでからは、結婚してからは切手に割く時間もなく、とうとうコレクションは今では古い方の家に置いたまま。
切手収集というものは「王様の趣味」だそうで、たっぷりの時間がないと無理。
何でもいいから片っ端からアルバムなりストックブックに入れてそのままにしておくのは簡単だが、切手収集というものはその切手が発行された日にち、理由などなどを調べ上げ、その切手の絵柄についてまでチェックしアルバムの中に書き入れる・・・それが本格的な収集家だ。
私はそこまでは到底無理だったが、長年、世界の切手に接するうちにそれらの切手が見せる景色、人物などの歴史的な背景などを学ぶことができた。
英語を学びながら、別路線でそのような世界の「景色」にふれていた。
そして、それらの景色を切に己の目で見たいと思っていた。
世界の切手が私が世界に飛び出すことを後押ししてくれたのだろうか?
初めてのヨーロッパへの旅・・・
切手で親しんでいたシスティーナ礼拝堂のミケランジェロの大天井画、ロムスとレムスの像、コロセウム、真実の口、ロンドン塔、ケルン大聖堂などなど・・・やっと実物をこの目で見る事が出来た、という感があった。
スエーデンやイギリスでは国王、女王の戴冠式の衣服、王冠を目にし、ああ、切手の通りだと思った。
あれからもう46,7年たった。
そして、年とともに自分の目で見る事が出来た切手の景色も増えた。
切手で見た時にはそれがどの建物かも知らなかったが、出かけてみて「ああ、この建物だったんだ」というものもあった。
スペインのサンチアゴデコンポステラもその一つだった。
数年前の生徒さんの一人で県下でも一、二位だという切手収集家がいた。
英語を習う目的は直にハワイまで出向きハワイがハワイだけの切手を発行していた当時の切手を買い求めたいから、ということだったが、熱心な人もいるものだと感服してしまったのを覚えている。
私の切手コレクションはいずれは人の手に渡ってしまうのではないかと危ぶんでいる・・・多分、夫か娘の手で。
海外に手紙を出したことはありますか?
初めて海外からはるばる空を海を越えてやって来た手紙を手にした時の感動はいつまでも忘れることはないと思います。
私が海外へ手紙を出し始めた中学1年の時、ヨーロッパへは10グラムまで¥110でした。
それから数年たって、私が高校1年の時のバイト代が1日¥500だったのだから、この金額って高かったのでは、と思いますが、どうでしょう。
アジアへは¥60、アメリカへは¥80でした。
この金額は徐々に上がり、私がノルウェーに住んでいたころは¥190だったかと思います。
それを考えると、今は安くなってます。
25グラムまで¥110でアメリカ、ヨーロッパに出せるんですから。
南アメリカは¥130です。
だけど、昨今、手紙を書くのもめっきり減ってしまいましたよね。
メールで済ませてしまうことしきりですから。
やはり、郵便受けに珍しい切手とともに届けられる親しい人からの手紙はより嬉しいもの。
この先、切手なんて使う事はなくなるのでしょうか?