箸の文化を背負って
日本には「道」と呼ばれるものが沢山あります。
茶道、華道、柔道などなどあげれば両手の指だけでは足らないでしょう。
ノルウェーにおいて、日々の食事毎に手に持つ箸にも道があると私は考える様になりました。
殆どフォーク、ナイフ、それにスプーンしか見ない生活でしたが、いや、だからこそ、私は箸道を深く自覚し、自分がその文化を背負っている、という事を再認識したのです。
ノルウェーの親戚、友人たちのためにお箸をお土産として持って行ったりしたけれど、少々がっかりしたこともありました。
どんなに立派な漆器の塗りの箸も食卓に上がることは皆無。
「あれよ、あれよ」という間に髪をアップした義姉のエキゾッティックなアクセサリーのなってしまったり、プレゼントの包みを開けた途端に植木鉢の飾りになってしまったこともありました。
「ほらね、すばらしいアイデアだだろ?」
って言いたげでした。
義兄は誇らしげに私の方を見て微笑んでいるんだから、私は何も言えませんでした。
そして、私はあの日本人特有のほほえみを返してしまったというわけです。
しかし、一度だけ、絶対に「日本のお箸!」と思ったことがありました。
魚料理が食卓に上がった時のことでした。
彼らはほんの小さな骨でさえ口に入れてはだめ、と大騒動をするのです。
どんな小骨も見逃さず、絶対に取り除こうとフォークとナイフで格闘している、って感じになります。
その結果のお皿ときたら、とても見られない状態、せっかくの大皿料理が美しい形態をとどめてはいないのです。
そんなわけで、魚料理が食卓に上がった時はチャンスでした。
どれほどに私が上手に箸を使う事ができるか見せることができました。
台所から菜箸を持ってきて、おもむろに小骨の多い魚をさばきました。
彼らはまるで手品でも見ている様な面持ちで冥利私の手先を見ていました。
お箸は私の手の中で自由自在でした。
私は日本人冥利に尽きると、まあ、勝手なことを思っていました。
私のしたことは魚との格闘ではなく、ただ、骨を取り除いても料理が美しく見える、美味しそうに見える様に箸を使っただけですが。
「ほらね、箸を使うにも道がある」
私としては彼らにそう言いたかったってわけです。
「日本は道を大事にする国なんだよね」
そうとも言いたかったのです。
さて、日本では、ノルウェーにまして我が家では魚を頂いています。
なにしろ下関の魚は美味しく、また、安いのですから。
夫は相変わらずです。
小骨の多い魚、要するに小さい魚・・・あじ、いわしなどは口にしません。
ノルウェー産のサバは「おいしい、おいしい」と食べています。
私は冗談に「共食いだね」と言っています。